09、そうだ、京都に行こう

2016年3月13日 (日)

出揃ったか衆院京都3区候補者

  京都は1200年以上に及ぶ歴史と伝統文化の街であるとともに、兄弟ら親族が居住し働く地域でもあり様々の動きに関心を持っています。000000020141201231824
 衆議院・京都3区は「京都市伏見区、向日市、長岡京市、乙訓郡大山崎町」ですが、宮崎謙介前衆院議員(自民離党)が辞職したことに伴い、4月12日告示、4月24日投開票の補欠選挙が行われます。この京都3区と北海道の補欠選挙は同日の予定であり、且つ夏の参議院議員通常選挙の前哨戦という意味合いからも各党は力を入れるはずです。
  まず、自民は公認見送り、共産党は独自候補を立てず野党共闘を検討する方針を示しています。
 立候補を表明しているのは、民主党の泉健太衆院議員(41、札幌市北区出身=比例近畿)と、無所属新人で元塾講師の郡昭浩氏(55、愛媛県出身)が立候補を表明。更に、おおさか維新の会は党職員の森夏枝氏(34、愛媛県出身)を、日本のこころを大切にする党は小野由紀子氏(37、京都市伏見区出身)を公認候補として擁立することを正式発表しています。これまで「無所属候補で野党共闘すべき」との意見もありましたが、これでは全員が野党候補であり、それに小野氏以外は全員落下傘候補です。小野由紀子氏は京都市伏見区出身。京都文教短期大中退後、食品会社などに勤務し、市消防団員とあります。
 いずれにしても、民主VSおおさか維新の戦いになる公算が大きいが、果たして、独自候補を立てない共産党は民主の泉氏を押すのか、そして様子見の自民・公明党は勝ち馬に乗るのか、それとも別の策を練っているのか・・・・・・
 よって、大切なのは「そうだ京都に行こう」ではなく、「そうだ選挙に行こう」です。
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【追記】「独自候補を立てない共産党は民主の泉氏を押すのか」と予測しましたが、
民主「共産と共闘せず」 衆院京都3区補選
   http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20160313000114
 京都3区補選や参院選での野党共闘に関し「(支持者の)拒否感の強い共産党組織とは一線を画す」として、共産党とは「いずれの選挙でも共闘しない」という文言を盛り込んだそうです。

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2015年11月19日 (木)

京都の「血天井」で戦国の世を想う

 京都は「鳴くよ(794年)ウグイス平安京」からは1221年、これに比べると「一路、雄雄(1600年)関ヶ原」からは415年ですので短いものです。先般の京都旅行では、この時代にまるで手が届くよ0000c2eうな錯覚に陥る場所がありました。京都旅行で記憶に残ったことを書き足しておきたいと思います。
 江戸の初期、家康の世になると、「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに喰うは徳川」と狂歌が流行ったそうです。それまでの日本各地は、主人殺し下越上が当たり前の戦国の世で、正に血で血を洗う争乱の時代が続いていました。そんな戦国の世に咲いた、三輪の花「浅井家三姉妹」は特筆されることです。_0003
 北近江・小谷城の城主・浅井長政は織田信長の妹であるお市の方と政略結婚し、日本史の重要な場面に名を残す三姉妹が誕生します。
 長女・茶々は淀君となり、秀吉の側室となり、世継ぎの秀頼を産みます。
 次女・お初(常高院)は小浜藩主・京極高次に嫁ぎ、風雲迫る大阪城に姉・淀殿の救助と和平を目指して豊臣・徳川間を幾度も往来しています。
 三女・お江は、2代将軍・徳川秀忠に嫁ぎ、3代将軍・家光や後水尾天皇の中宮・和子を産んでいます。
  さて、京都の三十三間堂の道を挟んだ東に「養源院」というお寺がありますが、地天井の寺として有名です。このお寺は、淀君が秀吉に願い、小谷城の合戦で破れ自刃した父・浅井長政の21回忌に建立したお寺です。その後、火災で焼失していた寺を、淀君の妹で二代将軍・徳川秀忠に嫁いだ小督(おごう)が、落城した伏見城の床などを移築して再建し、その後は徳川家の菩提所となった寺だそうです。
  ポイントは、建立したのは淀君で、父・長政の敵である秀吉に願い建立したこと。 
  また、再建したのは淀君の妹で二代将軍・徳川秀忠に嫁いだ小督(おごう)ですが、そのとき天井に血で染まった徳川方の城「伏見城」の床板を使用していることです。この天井は、関ヶ原の合戦の直前に、伏見城に籠った家康が人質時代からの盟友・鳥居元忠ら380余名が自刃した血が染み込んだ床を、寺の天井板に使ったのです。
  案内された住職さんは、この寺には、血で血を洗った信長・秀吉・家康らの戦国の世に終止符を打ちたいと願った、お茶々、お初、お江らの想いが込められているとの説明に納得しています。
 養源院は案内人の説明が一番丁寧だったところと思っています。
 ただ当日は混雑していました。皆さん京都旅行では外せない場所なのでしょう。
 また、養源院には俵屋宗達が書いた杉戸などが展示されています。

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  「養源院(ようげんいん)」の住所は東山区三十三間堂廻町656です。
 血天井のある寺では、他に
 宝泉院(ほうせんいん) 京都府京都市左京区大原勝林院町187勝林院塔頭
 正伝寺(しょうでんじ)京都市北区西賀茂北鎮守庵町72
 源光庵(げんこうあん)京都市北区鷹峯北鷹峯町47
が知られています。

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2015年10月19日 (月)

中央卸売市場は食料安保の最前線

 昭和2年、日本初の中央卸売市場として誕生した「京都市中央卸Img_4670_2売市場」も老朽化と狭隘化により、2025年度の完成を目指し整備計画があるそうです。兄と弟が経営する「石徳」が入居する1号棟や2号棟も昭和53年の改築と聞きましたが手狭になった印象でした。
 計画案としては、
 青果棟は5階建てとし、1階~3階に荷卸場やせり場、ピッキング場所、4階に仲卸店舗、5階に卸事務所、屋上に駐車場を備えるそうです。兄弟も、「ここも10年後には新しくなる。楽しみなことだ」と期待していました。ところで、せっかく青果棟や水産Image2_3棟、駐車場など全般を見学させて頂きましたので、門外漢で失礼ながら提案意見を申し上げたいと思います。
 まず、京都市中央卸売市場は、他の中央市場より市街地に位置しながら、広大な敷地を有するなど立地条件に恵まれていますので、それを最大限生かして欲しいものです。
●震災発生時の住民や観光客の避難場所を検討する。
●万が一に備え、ガソリンなど燃料補給体制を常備しておく。(燃料が無かったら食料品も運べない)
●通路を広く確保し運搬車両や歩行者の安全を図る
●運搬車両の自動運転やロボット稼働を可能にする工夫をする。
駐車場所を広く確保し、車利用客を呼び寄せる工夫をする。
トイレや方角などを分かり易く表示する。
●外国人や観光客に対応した工夫をする。
防犯カメラを多く設置し管理体制を万全にする。
●京都の街にマッチした建物の外観を検討する。
●中央卸売市場を和食文化の発信基地にする。
  農林水産省と協力し、ユネスコ無形文化遺産登録の和食文化の保護と継承、地域の活性化に積極的に貢献する体制を作る。
●食料安保の最前線として機能強化を図る
 いずれTPPの影響を最初に受けるところであり、防疫など衛生面対策等あらゆる機能強化を図り、食の安全・ 安心へ積極的に貢献する。Image2_2


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2015年10月18日 (日)

京都中央卸売市場のにわか知識

 先日、「京都市中央卸売市場」の青果棟63番で兄と弟が営む「石徳」を訪問Esitoku_2015_10した際、青果棟や水産物部棟を見学させて頂きました。
 まず、京都市中央卸売市場第一市場の面積は、甲子園球場の約4倍もあり、屋上の駐車場の広さに驚きました。場内業者の従業員数合計は約4千人だそうです。青果棟では折から「競り」の場面を間近で見学し、真剣な眼差しで取引している関係者の雰囲気などを勉強することが出来ました。また、京都市中央卸売市場は中央市場の先駆けとして、昭和2年の開設です。この場所は794年平安京遷都と同時に、道幅が84mもあった朱雀大路(今の千本通)の東西に置かれた東市・西市とほぼ同じ所に位置していることからも歴史を感じさせます。
 この中央卸売市場で働く人達は、「卸売業者」「仲卸業者」「売買参加者」に分類出来るそうです。
卸売業者」とは、農林水産大臣の許可を受けて、日本各地や外国からも集荷し、仲卸業者や売買参加者に販売し20159cています。卸売業者は多種多様な生鮮食料品等を集荷し、せり売りや入札等で販売しています。
仲卸業者」とは、中央卸売市場内に店舗を持ち、卸売業者から買い付けた物品を細かい単位に仕分け、調整し、小売業者、大口需要者等に販売することを業務としています。仲卸業者は、専門的な立場から消費者に代わって品物を評価し、市場における価格形成に重要な役割を果たしています。仲卸業者が業務を行うには、品目ごとに許可を必要とします。
売買参加者」とは、卸売業者の行う卸売に直接参加し、物品を買い受ける権Img_4665利を持っている小売業者や大口需要者であり、仲卸業者とともに卸売業者の卸売の相手方となるものです。
  兄弟が営む「石徳」は、「仲卸業者」の一つとして京都府民の台所に新鮮な食材を届ける大切な業務として、誇りと自信を持って営んでいることが伝わりました。
 裏話として、「マツタケ」の扱いは難しいそうです。国産松茸と外国産松茸の見分け方、国産松茸は天然物で虫が付きやすいことや、価格が中々安定しない傾向があるそうで、この見分けに弟は口を出さず兄に任せていると語っていました。なお、京都市中央卸売市場は老朽化と狭隘化により、青果棟は全面建て替えで2025年度の完成を、改修する水産棟は19年度の完成を目指しています。兄も10年後が楽しみだと語っていましたが、それまで現役で頑張って欲しいものです。
平安京の条坊図 Image1

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京都中央卸売市場「(株)石徳」のこと

 このところ、連続して京都の話題を提供していますが、兄弟の会社のことにも触れておきたいと思います。Img_4665京都市中央卸売市場では、兄の杉山富美雄と弟の賢三が、「石徳果物部」と、「石徳青果部」を営んでいます。
 兄の富美雄とは年齢が8歳違い、中学を卒業すると直ぐ京都の叔父方で暮らしながら京都の学校に通っていたこともあり、実家で一緒に過した思い出は少なく、先日、訪問した際に京都で暮らすことになった経緯などを尋ねてみました。
 京都には母の妹が嫁いでおり、ご主人は三木昭三といい京都市中央卸売市場で石徳を営んでいたのですが、子供がいなかったのです。そこで富士宮市の我が家には男四人兄弟Bananaがいたので、幼少時から誰かを後継者に欲しいと狙っていたようです。そして兄・冨美雄は気配りが利くところがあり、商売向きと叔父の目に留まったのでしょう。
 本人へのアタックは、中学三年の京都への修学旅行のときと聞きました。宿泊先に生徒や先生方全員分の大量のバナナが届けられ、「今日は冨美雄君を我が家に泊まらせたい」と先生に頼み許可されたことが第一歩のようです。Honda_cb_250
 叔父・叔母の京都の自宅では、ご馳走の接待攻勢を受けながら、「京都はいいぞ・・・富士宮と違って何でもあるぞ・・・」などと口説かれたのでしょう。しかし長男であることから、当然、親の大反対があったのですが、これを押し切って京都に向かったのは昭和34年のことでした。京都では一人息子のように大切にされ、当時、一番人気のオートバイ「ホンダCB250」を与えられ、流行り始めたばかりのエレキギターを買ってもらい音楽学校に通うやらで、スッカリ京都に染まり抜けることが出来なくなったのでした。
 叔父や叔母の作戦に完全にハマってしまったのでしょう。0000c5
 いよいよ商売の石徳の仕事を手伝うのですが、当時、流行のベンチャーズサウンドに憧れ、折からのエレキ・ブームから、仲間5人でバンドグループ「ザ・マイティーズ」を編成したそうです。そして、同じ学校の後輩で京都出身の愛田健二のバックを担当し、「京都の夜 」「小雨の金閣寺」などを、京都や大阪などの舞台で演奏していたようです。
 因みに、「ザ・マイティーズ」の名付けは、通っていた京都関西音楽学校の作曲家で浅田憲司校長だそうです。浅田校長は愛田健二(本名・浅田久一)の父親だそうですから力の入れ方が分かります。
 当時は「モテモテで困ったものだ」と語っていましたが、富士宮に帰省しても、そんなことは一切語らなかったので、今回初めて聞いた話でした。しかし、どんなに夜遊びしても、午前2時には市場に向かったことを自慢していましたが、色々いい思いをしたことでしょう。最近、体調を崩したそうで心配しているのですが、弟の賢三がシッカリ支えているようなので安心しています。
 弟の賢三は、富士宮当時から空手を続け、今でも学生達に指導しているそうです。
 富士宮当時はヤンチャなところがありましたが、今は仕事一筋の男です。
 下段に「京都の夜 」を貼り付けましたので、愛田健二の甘い歌声とともに兄の若かった頃を想像したいと思います。

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 下段中央が、叔父の三木昭三です。Img_4675

京都の夜
 
作詞:秋田 圭  作曲:中島安敏  歌唱:愛田健二
(一)
別れないでと 抱きしめて
愛してくれた あの人は
白い夜霧に 消えたまま
淋しく今日も 求めてうたう
甘い京都の夜は ふけゆく
 【台詞】
 ばかだなあ  どこへ行っちゃったんだい
  君の 君の シャネルの匂いが いつまでも 消えないんだ
(二)
聞かせておくれ 今一度
優しいあなたの ささやきを
祇園の雨に 濡れながら
シャネルの人を せつなく今日も
さがす京都の夜は ふけゆく
さがす京都の夜は ふけゆく

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2015年10月17日 (土)

壬生や角屋で幕末にタイムスリップ

 京都の旅では、幕末期の動乱の京に突如として登場した「新撰組のことを忘れてはなりません。これまで「新撰組のことは頻繁に小説や映画などで取り上げられ、ごく自然に京の街の地名や名所を記憶したものです。当時は迷惑な集団と思われたでしょうが、今では京の歴史を面白くした第一功労者とも見ることができます。もし新撰組が存在せず、横暴な薩長のなすがままに天誅や焼打ちが繰り返され、すんなりと大政奉還、討幕に進んだなら、京の歴史、幕末日本の歴史も面白みが半減したはずです。Image6
 そこで滅びの美学と言われる新撰組の障りだけでも触れたく、「揚屋」角屋(すみや)や八木邸、前川邸、壬生寺などを見学してきました。新撰組草創期Photo_5の初代局長・芹沢鴨が、仲間に闇討ちされる場面は、映画などで必ず取り上げられるクライマックスシーンです。
 芹沢鴨はその日、「揚屋(今の料亭)角屋」で酔いつぶされて、八木邸まで副長助勤・平山五郎、同じく副長助勤・平間重助に介護されながら歩いて帰宅したそうです。その場所や距離感を知りたく、中央卸市場南方の島原にある角屋(すみや)を見学後、壬生寺隣の八木邸まで、「坊条通」約1.5キロを歩いてみました。当時は歩くのが当たり前の時代で、この程度の距離は苦にならなかったはずです。
 ゆっくり歩いても約30分の距離でした。
  八木邸で、次のような解説を聞きました。
 芹沢らは八木家で再度宴会を開いたようで、そこには芹沢の愛妾のお梅、平山五郎の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄(きちえ)、平間重助の馴染みの輪違屋・糸里(わちがいや・いとさと)が酒席を盛り上げ、そして、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると、屏風で仕切っただけの部屋で女たちと寝ていたようです。
 八木邸で寝ていた順序は、
 奥の10畳間に芹沢とお梅、平山と吉栄、玄関口の部屋に平間と糸里が寝ていた模様。そして、寝入った深夜、試衛館派の土方歳三と沖田総司、山南敬助と原田Image4左之助が二手に分かれて奥の部屋へ踏み込み、芹沢・平山・お梅を殺害することになります。
 映画などでは、面白くするため脚色されて、戦ったように演出していますが、殆ど一撃で殺害されたようで、平山とお梅は布団の上で首を跳ねられています。ただ、神道無念流の免許皆伝で師範役であった芹沢鴨は、一撃を受けながらも枕元の脇差で立ち向かい、一旦は廊下に出て、隣室の八木親子(母親と為三郎、勇之助兄弟)が寝ていた六畳間に逃げ移ったとき、入口付近の文机につまずき、倒れたところを殺害されています。
 このとき、弟の勇之助が誰かの刀傷を受けて大怪我しています。これらは、当主・八木源之丞の息子・為三郎(1850~1931、享年82歳)が、14歳当時の目撃談として後世に語り継がれていることです。
 なお、浅田次郎の「輪違屋糸里」の小説は、京都島原の天神糸里を主人公に、平山の恋人の吉栄、芹沢の愛人のお梅ら女たちの視点で、新選組初期に起こった芹沢鴨暗殺事件を描いています。Sumiya_12
●角屋もてなしの文化美術館(右写真) 
 TEL:075-351-0024 営業:10時~16時 定休:月曜、
 入館料¥1.000
八木邸 
 TEL:075-841-0751 営業:9時30分~16時30分 
 定休:月曜、第3水曜  
■芹沢襲撃 八木邸 二十四 大河ドラマ 新選組 新選組を行く   https://youtu.be/X4V6c5jg2p0  

「新選組 - 生き残った男」 驚きももの木20世紀 (1/6)
   https://youtu.be/gEmBjyiMTx0

ああ新撰組
作詞:横井 弘 作曲:中野忠晴
(一) 加茂の河原に 千鳥が騒ぐ
またも血の雨 涙雨 武士という名に 
生命(いのち)をかけて
新撰組は 今日もゆく
(三)  菊の香りに 葵が枯れる  
枯れて散る散る 風の中  
変わる時世に 背中を向けて  
新撰組よ 何処へゆく
(二) 恋も情も 矢弾(やだま)に捨てて
軍(いくさ)かさねる 鳥羽伏見
ともに白刃(しらは)を 淋しくかかげ
新撰組は 月に泣く

新選組の歌」  
牧房雄作詞、小川隆司作曲
(一)葵の花に吹く 時代の嵐  
乱れて騒ぐ 京の空  
誠の旗に集いつつ 
誓う剣は雲を切る
(二)荊を踏み越えて 大儀の虹に   
憂いて進む 道ひとつ   
今宵も鴨の水荒れて 
夢は破れる小夜千鳥
(三)火筒に草は燃え 300年の   
武運は虚し 鳥羽伏見  
夜明けを前に散り惑う 
壬生の強者どこへ行く

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昼食は京都マグロ卸直営店・宮武で

 こんな美味しい店が近くにあったなら、毎日でも通ってみたいとImg_4697思った事です。
 京都市の中央卸売市場で、兄と弟が(株)石徳青果部と(株)石徳果物部を経営しており、先日、表敬訪問して来ました。
 昼食は、市場南に近接する歴史ある土地『島原』の一角に位置する「魚河岸・宮武 」に案内されました。この店は2012年10月1日開店で、看板を掲げない「大人の隠れ家」として、また料理を作っているところが目の前に見えるオープンキッチンスタイルの評判の店だそうです。
 「宮武」は、中央卸売市場でマグロ卸業者直営の店であり、市場直送のランチは「日替御膳800円」と、お安い値段で提供していました。この日の「日替御膳」は「づけ丼」が中心でしたが、今まで食べたことがないほどの味付けを堪能させて頂きました。きっと、東京では2000円くらいの0000101値段を付けるはずです。魚河岸「宮武」 は、食べログで4.5の高い評価を受けているとおりの期待を裏切らない店です。夜は居酒屋に変身して開業するそうですが、つくづく兄弟らを羨ましく思ったことでした。
 所在地は、
 京都府京都市下京区西新屋敷下之町6-5
 アンクル島原 1F http://uogashi-miyatake.jp/
 ☎075-203-1855
 ランチは予約しておいた方がいいと思います。
 ※店舗前は昼前には、このような行列でした。
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2015年10月16日 (金)

歴史を左右した京都伏見の戦い

 京都南部に位置する伏見は、戦国時代は徳川が天下を取ることになる「関ヶ原の戦い」、幕末には徳川幕府の終焉となる「戊申戦争」の前哨戦の地として歴史のターニングポイントになった所として知られています。Image5
 「伏見城の戦い」は、「関ヶ原の役」の前哨戦として、家康が今川の人質当時からの幼馴染・鳥居元忠らが籠城する伏見城を西軍(石田三成側)が攻めたとき、元忠ら1800人が城を枕に玉砕した戦いでした。なお、養源院(東山区三十三間堂廻町656)の「血天井」は元忠や家臣らが自刃した建物の床板を供養のために天井に貼られたと言われます。
 また、「鳥羽伏見の戦い」は、幕末の1868年(明治元年/慶応4年)は、日本史上最大の内戦「戊辰戦争」の前哨戦として知られています。いずれも、歴史を大きく左右した一大決戦であり、そんな伏見の空気に触れたくなり訪問してみました。
 かつて、伏見は豊臣秀吉により宇治川と濠川による河川港として築かれ、大阪と京都を結ぶ交通の要衝として、米を三十石積めたという三十石船が往来した水運の拠点であり、また、秀吉は伏見城を築き「桃山文化」が花開いたところです。
 しかし、「伏見城の戦い」では三十石船などが水運を利用して、西軍の軍勢は伏見城を目指したであろうし、幕末には、薩長の西郷隆盛や坂本龍馬ら志士も三十石船で往来し、討幕のために京の街に武器弾薬を運び込み、天誅や京の街の焼打ちなど不穏な計画をしたはずです。そんな、歴史の証人として坂本龍馬が定宿にしていた伏見港の船宿「寺田屋」が昔の姿のまま残されていました。
 訪ねると、きっと幕末にタイムスリップしたような感覚になるはずです。
 かつて賑わった「伏見港」は、淀川水運が廃止されると埋め立てられ、現在は伏見港公園として復元されていました。

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日本の夜明け
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2015年10月15日 (木)

京都の「鯖街道」は今も健在です。

 高倉健主演の「夜叉」は福井県美浜市の若狭湾に面した漁村でしたが、全長約70kmの「鯖街道」はこの辺りから何本も京都を目指していたそうです。Saba_33「鯖街道」と言っても、鯖だけでなく若狭湾から甘鯛、笹カレイ、松葉カレイ、イワシなど多くの魚が一汐されて京へ運ばれていたのですが、特に鯖が多かったので「鯖街道」と呼ばれたそうです。その名残りでしょうか、京都には今も「鯖寿司」を提供するお店が沢山あります。
  先日、京都の中央卸売市場で「(株)石徳」を営む兄弟から面白い話しを聴きました。 「(株)石徳」のお客様で、京都市と亀岡市で20店舗を展開するスーパー・マツモトの話題です。実は、この話しを聞く前Img_4673に一度「マツモト 」を利用し「鯖寿司」を購入していましたので話しは見えていました。
 現会長の松本定市氏(94歳)は、1955年に京都で初のセルフサービス店をオープンして以来、京都市と亀岡市を中心に20店舗を展開する京都を代表するスーパーチェーンで、社是は「商道一筋、正直一途、誠心こめて」と掲げています。
 「マツモト」 が力を入れるのは、「鯖寿司」「巻きずし」「サツマイモ」、そして「レジ清算」で、松本会長の拘りは大きい太いが第一条件だそうです。
 実に、顧客の購買心理を突いていると思います。
 また、94歳の松本定市会長は、松本隆文社長と分担して各店舗を巡回するのが日課で、今日も助さん格さんを引き連れて、陣頭指揮を奮っていることでしょう。言い忘れましたが、マツモトの名物の「鯖寿司」はズッスリと重く油が乗って美味しくお得感が有ると思います。今回は、松本会長の助さん格さんを引き連れた店舗巡回の様子を拝見出来なかったことは残念でしたが、京都の名物会長として、いつまでもお元気で・・・・・

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株式会社マツモト 代表取締役社長 松本隆文 京都府亀岡市西竪町61-1

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京都「大覚寺」で無知を自覚する。

このようなブログは、どうしても知ったかぶりになりがちですが、先日の京都の旅は、いかに「無知」であるかを自覚した旅でもありました。ソクラテスは、無知を自覚することが真理に至る道であると「無知の知」を説きますが、そんな高尚なことではありません。単なる、「無知の自覚」というか「無知の恥」とでも言うべきでした。
 ※大沢池の菊ケ島で嵯峨菊を管理している方にいろんなお話しを聴く。
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 先日、右京区嵯峨にある真言宗大覚寺派大本山の寺院「大覚寺」を拝観しました。
 動機は、「剣客商売」、「子連れ狼」、「水戸黄門」、「鬼平犯科帳」、「たそがれ清兵衛」等々の時代劇のロケ地として知られ、実際はどのような寺院なのか一目確認したいと思ったからでしたが、日本文化発祥に深く関係していることを知りました。京の歴史、いや日本の歴史を知るには、外せない場所でしょう。
●嵯峨天皇(52代 786~842 在位809~823)は平安京に遷都した桓武天皇を父に持ち、 「大覚寺」の前身は「離宮嵯峨院」であること。
●「大覚寺」の庭園は平安初期、嵯峨天皇が嵯峨離宮造営と同時に造られた日本最古の庭園であること。
●嵯峨天皇は空海(弘法大師)と親交深く、大覚寺の前身「嵯峨離宮」建設に協力し、また 空海は嵯峨天皇から東寺の下賜と高野山を開く許しを得ていること。
●嵯峨天皇は子息たちに「源姓」を与えたことが「源氏」姓の発祥と言われている。
古典菊(肥後菊や美濃菊など)の一種である嵯峨菊は、大沢池の「菊ケ島」に自生していた野菊で嵯峨天皇のお気に入りで広まったこと。
●紫式部が「式部日記」で、「嵯峨野の月はたいへん素晴らしい」と大沢池の月を褒めたたえ、今も、「観月の池」として知られ、平安の昔から貴族によって舟遊びが行われた天下の名勝地であったこと。
●真言の寺「大覚寺」は、弘法大師空海は嵯峨天皇に写経を奨めたことから、今も般若心経写経の根本道場として嵯峨天皇に倣い写経する人々が多いこと。
●「大覚寺」は、いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)であること。
 この一つでも知識を深めて再訪したなら、せめて「無知の知」に接近できるかも?
 〒616-8411 京都府京都市右京区嵯峨大沢町4 ☎075-871-0071

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嵯峨伝燈学院の僧侶たち(真言宗僧侶の修行養成機関)Img_4777
旧嵯峨御所 大覚寺門跡   https://youtu.be/S2bozwzLgBs  

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