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2018年10月 7日 (日)

青梅街道沿いの「今川」や「八丁」

 土地の面積に今も、宅地なら「坪」、農地なら「町(丁)」や「反」が使われています。1560_1200w
 「1反は300坪」、小規模の一戸建てなら30軒も建てることが可能です。また、「1反を10集めると1町」であり、「1町は3000坪」ですから300軒の家を建てることが可能となります。さて、青梅街道を車で移動していると、杉並区に「今川」の地名や「八丁」という交差点名が目に留まります。
 この地名は、戦国の武将・今川氏に由来しており、今川義元が有名です。今川義元は「桶狭間の戦い」で織田信長に簡単に討たれた公家風の軟弱な大名がイメージされますが、これは、後世の小説や映画で作られたものです。今川氏は、室町~戦国時代の230年に渡り駿河に君臨した名家で、特に、今川義元は「海道一の弓取り(東海道一強い武士)」と名声を誇っていました。
 この当時、徳川家康(竹千代)は、三河国の岡崎城主・松平広忠の子として誕生しますが、両隣に今川氏と織田氏に挟まれ、どちらかに庇護を求めなければ生き残れない状況から、広忠は今川氏に竹千代を人質を差し出して庇護を求めます。そして、徳川家康(竹千代)は、8歳から19歳までの多感で知識欲旺盛な時代を人質として過ごし、今川氏の軍師で、政治・軍事・外交に手腕を発揮した太原雪斎が教育係に付き、厳しいながらも質の高い教育を受けたとされます。その後、桶狭間の戦いで今川義元は討死し、徳川家康は人質から解放され三河国の岡崎に戻りますが、今川家への恩義を生涯忘れなかったとされます。
 そして、家康は江戸に転封されると、名門として名高い今川家を高家旗本として召し抱えています。知行地として、井草・鷺宮・中村あたりに500石を与えており、杉並区の今川の地名や、青梅街道沿いの陣屋の敷地が八町あったことから付けられた八丁交差点は、その名残りですから敷地の広さも想像できます。

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01、個人的に関心を持った話し」カテゴリの記事

コメント

 今川家については「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われるほどの名家であり(ただ、吉良も今川も日本史上は悪役になってしまっているが)、「今川焼」の由来については神田の今川橋付近にあった店が発祥だからとか、形状が今川家の家紋に似ているからとか諸説があるが、それはさておき、問題は「坪」という単位であり、ご存知の通り畳2畳で正方形を形成した時の面積であるものの、その畳が、いわゆる「京間」「江戸間」「団地間」などで大きさが異なるものであり、不動産公正取引協議会では1坪=約3.31平米で統一しているところで、
 そろそろ今川家のみならず、信長に滅ぼされた武田家の遺臣も、徳川家や同じく東海地方の大名であった山内家に召し抱えられることになったことから、彼らによって持ち込まれた甲州ほうとうが名古屋の味噌煮込みうどんになったとの説もあるが、武田家の遺臣である板垣家はその後山内家と共に土佐へ渡り、後年そこから板垣退助が出て、官軍を率いて甲府城を攻撃することになろうとは(この時幕府軍として参戦したのがかの新選組)、何の因果かと言ったことにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年10月 7日 (日) 17時03分

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