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2018年10月11日 (木)

「始まったことは必ず終わる」佐々淳行

 危機管理、安全保障の先駆者・佐々淳行氏が10月10日、老衰で死去されま00000204203200_した。ご冥福をお祈り申し上げます。菅義偉官房長官も「危機管理のプロとして大いに活躍した。功績をしのび、ご冥福をお祈りする」と讃えていました。同氏は、東大を卒業後、警察20年、外務省4年、防衛庁9年、内閣3年の長きに亘り、常に最前線に立って能力を発揮しながらも、警察庁長官や警視総監などの目立った地位に立つことはありませんでした。これに、自らも「上司に立てつく癖があったから・・」と述懐されていました。
 危機管理評論家として、テレビなどに出演されると、ズバリと本質を突く、衣着せぬ切り口で、数々の名言を残して人気を博していました。「大きく構えて小さく収める」、「始まったことは必ず終わる」、「備えあれば憂いなし」と言うが日本は「憂い無ければ備えなし」だ。「良好な治安と国の防衛こそ最高の社会福祉」、「自助」「互助」「公助」、そして「防衛」「防災」「防疫」「防犯」これが危機管理のすべてだ。などは真っ当過ぎる言葉と思います。今後、このような志を継ぐ人材は現れるのか・・・・・
 佐々氏は数々の著書を残していますが、肩を張らずに読めるのは、1989年発刊の「目黒警察署物語」―佐々警部補パトロール日記と思います。著者が東大を卒業0000_bo1204203200_して、現在の国家公務員上級職(当時は警察3級職)として勤務を開始し、巡査部長3名を含む35人の部下を担当した23歳の新人警部補が、その時代を背景にした奮闘記録です。物語は1954年(昭和29年)10月1日、目黒警察署の門前に立ったときから始まります。
 「ここが私の警視庁警部補としての最初の勤務部署・警視庁目黒警察署の正面玄関だ。警察官としての人生が始まる“人生の門”か。いかに自ら進んだ道とはいえ、なんとまあ、殺風景な入口だろう・・・・・」と始まります。23歳で殆どが年上の部下を持たされ、ご苦労されたでしょうが、どんな仕事でも「置かれた立場で最善を尽くして責任を果たすことが、最も価値がある」と学ぶことが出来ます。
 佐々淳行氏のご先祖に、織田信長の武将として戦功を上げた佐々成政がいますが、大の秀吉嫌いで悲運の最期を遂げます。また、徳川光圀に仕えた佐々宗淳(「水戸黄門」の助さんこと佐々木助三郎のモデル)もご先祖とされますから、優れた能力の家系なのでしょう。佐々氏も、ご先祖に負けない剛毅と気骨の人でした。

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01、個人的に関心を持った話し」カテゴリの記事

コメント

 佐々淳行氏はお子さんにも厳しい教育をされ、「この飼い犬の何分の1も優しくしてもらってない」との旨お子さんが述べられていたが、やはりあの「あさま山荘事件」の大鉄球の修羅場を潜り抜けてきたからだろうと思われ、そのあさま山荘事件を実況したのが、当時日テレのアナウンサーで現在フリーの久能靖氏であり、皇室ジャーナリストとして皇室関係の著書の他に、あさま山荘事件に関する著書も出されているところで、
 そろそろこのあさま山荘事件はもう一つ、日本にとって大きな「転機」となった事件であり、あの氷点下の現場で機動隊員に配られた食料が、当時出たばかりの「カップラーメン」であり、その食べる姿が全国中継されるや否や、当時売れ行きさっぱりだったカップラーメンが爆発的に売れて国民食にまでなるきっかけとなったのであり、果たして現在NHKで放映中の朝ドラ『まんぷく』ではその辺りが描写されるのかと言ったことにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年10月11日 (木) 10時06分

 1972年(昭和47年)2月19日~2月28日にかけての「あさま山荘事件」は、連日、テレビ中継され、日本中が釘付けになった結果、平均視聴率が65%を記録した出来事でした。しかしながら、東京勤務の警視庁機動隊が突然、氷点下10~20度という厳寒の山岳地に送り込まれていたことは、その裏事情はあまり理解されていませんでした。
 突然の派遣で着替えも持参せず、また、大した防寒装備も無かった時代で、履物も、編上靴という革製の靴はすぐに雪で濡れ、靴下を重ね履きしても霜焼けを起こした隊員も多かったそうです。そのような中で、お湯をかけるだけで食べられる「カップヌードル」の配布は喜ばれたはずで、報道陣にも配られていたそうです。
 なお、機動隊員が長期遠征する場合は大金を持参することはなく、裏方の補給部門がその都度大量買い付けや手作りした弁当や、無料差し入れされた食糧を頂く機会が、かつては多かったそうです。また当時から、警視庁機動隊には、プロパンガスを搭載した「キッチンカー」があって、お湯を沸かせるので「カップヌードル」の差し入れは画期的だったはずです。
当時、日清食品の「カップヌードル」が売り上げが芳しくなく、この際とばかりに在庫処理で放出された裏事情は、知るすべはなかったでしょう。機動隊員が務まる最低条件は、どんな場所でも寝れることと、何でも食べれることだと聞きます。「カップヌードル」のヒットのことは、きっと、朝ドラ『まんぷく』でも最終回辺りに触れるはずです。

投稿: | 2018年10月11日 (木) 21時28分

 当時も現在も機動隊には、平穏な市民生活及び「資本主義・自由主義」体制を破壊しようとする、過激な活動から「治安を守る最後の砦」として期待されています。事実、昭和40年代には市民生活は勿論、通常の企業活動に影響を及ぼす、河合楽器のあさま山荘事件や三菱重工爆爆弾事件などの過激な闘争が繰り広げられていました。
 昭和49年3月22日に発足した「機動隊員等を励ます会」のホームページには、
 「極左過激派集団の暴力闘争が激しかった昭和40年代後半には、社会を震撼させる多くの騒乱事件が頻発しました。治安維持のために身命を賭して警備活動に献身する機動隊員の姿に感動した人々が、主義信条は抜きにした純粋な気持ちで発足させたのが当会です。爾来40年、機動隊員等の警察官が自らの使命を全うし、より強い自覚と誇りを抱いて職務に邁進されるよう、ささやかではありますが物心両面にわたり激励、支援していこうということが当会の基本的な目的であります。」とあります。
 これが多くの日本国民の本心です。

投稿: 管理人 | 2018年10月12日 (金) 07時35分

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