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2018年10月14日 (日)

慶喜は植民地寸前の日本を救った

 大河ドラマ「西郷どん」も愈々佳境に入り、14日、第38回は「傷だらけの維新」です000025bo1204203200_
 きっと、上野寛永寺に立て籠る彰義隊攻撃に、新政府軍は最新鋭の7連発スペンサー銃やミニエー銃、佐賀藩のアームストロング砲で半日で蹴散らします。北越戦争では、長岡藩は河井継之助指揮の元、ガトリング砲2挺のほか、アームストロング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃などの最新兵器で応戦するはずです。
 このように戊申戦争では、米国の南北戦争 (1861~1865年)終結で余った最新鋭の武器は、仏国経由で幕府に、英国経由で薩長に大量に売られていたのです。
 当時の武器製造は、英のアームストロング社と仏のシュネーデル社が二分していましたが、どれも最強の財閥ロスチャイルド系であり、その日本人手下(営業マン)が、坂本龍馬、岩崎弥太郎、大倉喜八郎、安田善次郎らでした。“死の商人”は戦争の匂いがす1867_image2ると、チャンスとばかりに敵対する双方に武器を売っていたのです。その窓口は、香港に設立したロスチャイルド系のHSBCホールディングスで、横浜に支店、長崎に代理店(グラバー商会)がありました。
 そして、内乱で弱った日本を攻めて植民地支配の陰謀があったことに気付いたのは、徳川慶喜や一部の幕臣でした。
  10月7日放送の「西郷どん」では、江戸城を無血開城後、上野寛永寺に蟄居していた慶喜を西郷が訪問し、鳥羽伏見の戦いから「敵前逃亡」、「腰抜け将軍」などと非難されても、大坂城を脱出した理由を語っていました。
 西郷は慶喜に、「何故戦わずに逃げられたのですか?本当においたちが恐ろしくて逃げたのでございますか?」と尋ねると、慶喜は「俺はロッシュ殿から逃げたのだ」、「あの男は俺にもちかけた。いざとなれば、フランスが援助すると。精鋭なフランス軍12万と、銃を5万丁。直ちに遣わそう。その代わり、勝利した暁には薩摩をよこせと」、「日本の中で、フランスとイギリスが戦い、勝った方が日本を乗っ取る。俺にできることは、逃げることしかなかった」と語っていました。NHKの大河ドラマは全体に史実と違う場面が多すぎるのですが、この脚色は評価したいと思います。
 このロッシュとは、幕末の駐日フランス公使のレオン・ロッシュのことで、慶喜が江戸に戻ってからも、三度も江戸城を訪ね、再起を促すも慶喜は動きませんでした。慶喜は水戸藩の江戸藩邸で生まれ、11才で一橋家の養子となりますが、きっと「天皇家と徳川家が対立したら天皇家に味方せよ」との光圀公の教えを知っていたはずです。なお、広瀬隆著の「赤い楯」ロスチャイルドの謎―は手元にありますが、この一族がいかにして世界を裏で操るまで至ったかが書かれています。

1865年3月3日、香港にHSBCホールディングス設立
1865年5月、亀山社中(海援隊)を結成
1866年 HSBCホールディングスは横浜に日本支店設立
1866年3月7日、薩長同盟締結
1866年7月28日、パークス公使ら英国使節団(五代友厚、森有礼ら)歓迎の宴
1867年11月9日、大政奉還
1867年12月10日、坂本龍馬暗殺
1868年1月8日、徳川慶喜は大阪城にて仏国公使レオン・ロッシュと会見。
1868年1月27日、鳥羽伏見の戦い
1868年1月30日、徳川慶喜はひそかに大阪城を脱出し、江戸へ
1868年2月12日、仏国ロッシュ、徳川慶喜に再起を促すが、慶喜はこれを拒否
1868年2月18日、英国公使パークス、戊辰戦争に英国の局外中立を宣言。
1868年3月 5日、徳川慶喜、江戸城を出て上野・寛永寺に蟄居
1868年3月16日、勝海舟、陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命される。
1868年4月 5日、勝・西郷会談。パークスの圧力もあり江戸攻撃中止が決定
1868年5月 3日、江戸城無血開城
1868年5月22日、パークス、ビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出
1868年10月6日、新政府軍、会津領内に侵攻
1868年10月23日、明治維新

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コメント

 まぁイギリスにしてみれば、幕府側はもはや「降伏」していると見ており、江戸城総攻撃を回避させたのも、降伏した相手に追撃を加えることは国際法に反すると反対したからと言われているが、あまり日本でドンパチやられると、この混乱に乗じてむしろロシアが出てくる可能性があるとの算段もあったのではないかと思われるところで、
 そろそろ上野でドンパチやっている最中、その音は芝の新銭座(現・浜松町付近)にまで轟き、そこにあった学塾の生徒が授業に集中できずに気をとられていると、「上野の山はここから二里も離れているから大砲でも鉄砲でも弾は飛んで来ぬ。ナポレオン戦争の時もオランダは本国が乗っ取られたのに長崎の出島にはオランダ国旗を掲げられたではないか。これからの世を変えるのは戦争ではなく学問である」と言って平然と講義を続けたのが他ならぬかつての幕臣・福沢諭吉であったことにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年10月14日 (日) 09時04分

 「動乱の世に本を読んでいることをむしろ誇る」ような福沢諭吉の心境は測り知れないところがあります。きっと、昭和40年代、極左暴力集団が爆弾テロや内ゲバに血眼になっていた時代を冷静に見ていた国民と似ているようです。上野戦争に、諭吉は「こんな事をやっている時ではない。いずれ互いに自滅する」と、終始傍観者として、覚めた目で見ていたのでしょうか・・・
 学問を通じて世界に目を向けた福沢諭吉(1835~1901)が見えた19世紀後半の世界は、欧米の白人が亜細亜を侵略していた時代です。英国はインドを植民地としてアヘンを栽培してアヘン戦争で清に勝利して香港を割譲。オランダはインドネシアを含む島々を、仏国はインドシナ半島のベトナム、ラオス、カンボジア辺りを次々と植民地化。米国も、ハワイ、フィリピンへと侵略。ロシア帝国も南下政策によって次々と領土を拡大していました。
 このように、アジアを土足で踏みにじる欧米列強に対して、戦うことなく、いとも簡単に受け入れる奴隷根性のアジアを見て、「脱亜論」で示したアジア蔑視の思想が形成されたはずです。つまり「脱亜入欧」、そして、『学問のすゝめ』で「天は人の上に人を造らず」と説き、更に「富国強兵論」を唱えたのでしょう。
 今、思うことは、人類の平等主義を唱えた同じ人物が、早々に「脱亜入欧論」を述べたことに驚くと共に、実に先見の明があった人物と感心するばかりです。

投稿: 管理人 | 2018年10月14日 (日) 10時30分

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