« 徳川家と対立したら天皇側に立て | トップページ | 協力者作りは、接近・取込み・操作 »

2018年10月 9日 (火)

10月9日は「シーボルト事件」発覚

 お客様の中に、千葉県香取市の伊能忠敬の子孫がおられ思い出しています。000000001204203200_
 文政11年(1828年)10月9日は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866年)が帰国準備の最中、日本で収集した品々を積んで先発した船が台風(シーボルト台風)で座礁し、船の修理の際に、積荷の中から禁制品の地図などが発覚した日です。
 当時の日本は西洋人はオランダ人しか入国できず、ドイツ人のシーボルトはオランダ人と偽って1822年に入国しています。入国の際、シーボルトの話すオランダ語を怪しまれまれるも、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」と偽って、その場を切り抜けたことは有名です。そして約6年間の滞在中に、浮世絵や屏風などを多くのコレクションの中に、伊能忠敬らが測量した持出禁止の日本地図の写しを持ち帰ろうとした事件でした。
 この事件に関与した人物として、シーボルトが入手した日本地図は、幕府天文方・書物奉行の高橋景保から入手したもので、発覚は、間宮林蔵(1780~1844年)の密告からとされます。間宮林蔵は、常陸国筑波郡上平柳村(茨城県つくばみらい市)の農家で誕生し、後に蝦夷地(現北海道)に測量に来ていた下総の佐原(現千葉県香取市)商家出身の伊能忠敬(1745~1818年)に測量技術を学んでいます。
 そして、1809(文化6)年、間宮海峡を発見する偉業を成し遂げ、更にシーボルト事件という密貿易の摘発に貢献したからでしょうか公儀隠密として活躍しています。
 なお、シーボルトは国外追放になるも、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、追放令も解除されると、1859年、オランダ貿易会社の顧問として再来日しています。
間宮林蔵記念館は茨城県つくばみらい市上平柳64
伊能忠敬記念館は千葉県香取市佐原イ1722−1
シーボルト記念館は長崎県長崎市鳴滝2丁目7−40

|

« 徳川家と対立したら天皇側に立て | トップページ | 協力者作りは、接近・取込み・操作 »

13、明治150年」カテゴリの記事

コメント

 伊能忠敬は50歳を過ぎてから幕府天文方にて自分よりはるかに年下の高橋至時に師事し天文学などを学んだことから生涯学習のモデルにもなっているが、もともとこの地図作成は、至時が翻訳していた『ラランデ暦書』中にある子午線1度の長さがどれくらいかを知るためには江戸から蝦夷地までの測量が必要ということで始めたものであり、ただこの目的では幕府から資金が出ないので地図制作ということで出資を申請したが、それが全国測量にまでなる「国家プロジェクト」にまで発展したのは、一説によれば、琉球王国などと密貿易を行い資金を密かに蓄えているとの疑いのあった薩摩藩の偵察目的もあったとされ、こうして完成した伊能図はシーボルトによって持ち出された後コピーされ、ペリー艦隊の船内にも掲げられていたとも言われ(ちなみにその時乗船に掲げられていた星条旗がミズーリ号上の降伏文書調印式にも掲げられた)、開国後、日本の海域を測量しようとした欧米諸国に幕府の役人が渋々伊能図を見せたところ、あまりの正確さに測量をやめたとの逸話も残っているところで、
 そろそろ伊能忠敬の子孫・親族の方と言えば、プロゴルフキャディの伊能恵子氏と言われているが、分家の出で金沢工業大学、土木工学科客員教授の伊能忠敏氏もおり(お名前も忠敬にあやかったもの)、この方は国鉄の理事も務められた方で、その国鉄から研究部門を承継した鉄道総研さんの「平兵衛まつり」が【10月13日(土)】にあることにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年10月 9日 (火) 12時56分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/2101431/74361005

この記事へのトラックバック一覧です: 10月9日は「シーボルト事件」発覚:

« 徳川家と対立したら天皇側に立て | トップページ | 協力者作りは、接近・取込み・操作 »