徳川家と対立したら天皇側に立て
安政5年(1859)10月7日に始まる「安政の大獄」は「嫌!獄門」と覚えたものでした。
その翌年、1860年の「桜田門外の変」は天皇家と徳川家が対立したら真っ先に天皇家に味方せよと遺言した水戸藩主の徳川光圀公の教えを、忠実に守った結果でした。
水戸黄門こと徳川光圀(1628~1701年)は、漢民族による最後の王朝「明」(1368~1644年)から日本に亡命した朱子学の朱舜水(1600~1682年)を自藩に招いて学問の師としました。
その朱舜水から、日本の歴史は天皇による普遍的な統治が継続する唯一の国と教えられ、大日本史の編纂を決意しています。そして万が一、天皇家と徳川宗家が対立するようなら、真っ先に天皇家に味方せよと遺言したとされます。
このように、水戸藩で生まれた「水戸学」の尊王攘夷思想は、水戸学の権威である藤田東湖は勿論、佐久間象山、吉田松陰、横井小楠、西郷隆盛、橋本佐内など多くの思想家や志士に影響を与え、倒幕の原動力となっています。
幕末は、一般的に1853年のペリーが浦賀に来航したことで「鎖国」に終わりを告げ、「日米和親条約」締結。孝明天皇は意義ありと水戸藩に「戊午の密勅」を下し。その密勅は水戸藩の陰謀だと、藩主・水戸斉昭は蟄居、家老・安島帯刀に1859年9月23日切腹を命じて「安政の大獄」が始まります。そして、安政六年(1859年)10月7日に越前藩士・橋本左内、儒学者・頼三樹三郎ら尊皇攘夷派や一橋派の大名・公卿・志士ら100人以上を粛清。しかし、大老とは言え「徳川の一家臣に過ぎない井伊直弼如きが・・・」と、徳川御三家 (紀伊・水戸・尾張)の一つ水戸藩士らによる「桜田門外の変」のほか、「坂下門外の変」、「天狗党の乱」など次々と惹起して、尊王攘夷運動を先駆けますが、当然多くの犠牲者を出しています。
この水戸学に影響を受けた事件は、昭和になっても尾を引き、 1932年(昭和7年)の「血盟団事件」では、茨城県大洗海岸の日蓮宗・東光山立正護国寺住職の井上日召や暗殺実行の小沼正、菱沼五郎は旧水戸藩出身でした。また、1932年(昭和7年)の海軍将校らが中心の「五・一五事件」では、愛郷塾主宰で水戸出身の橘孝三郎は塾生7人を率いて都内の変電所数か所を次々と襲撃。そして、1936年(昭和11年)の陸軍青年将校を中心とした「二・二六事件」では、皇道派の昭和維新の論理的支柱とされた北一輝の思想は、水戸学から吉田松陰をへて北一輝に受け継がれた右翼テロリズムでした。また、昭和45年11月25日の「三島事件」で三島由紀夫を介錯した森田必勝は水戸学の信奉者でした。(森田は三島と共に自決)
一点付け加えますと、日蓮の「立正安国論」は水戸学にも影響した理論とされますが、本来は「保守思想」の原典なのに、宗教団体や過激な右翼思想に歪曲されていると批判されています。
| 固定リンク
「明治150年」カテゴリの記事
- 「日本造船の父」沼津の上田寅吉(2018.12.24)
- 12月22日は「日本初の内閣成立」(2018.12.22)
- 今の日本は座して死を待つだけ?(2017.09.16)
- 慶喜は植民地寸前の日本を救った(2018.10.14)
- 徳川家と対立したら天皇側に立て(2018.10.08)
コメント
「2018年の平兵衛まつりはいつか?」と検索したら、この稚拙なブログに訪問したのでは、大勢の方々に迷惑かけていることになりますので、関連記事二か所を削除しました。地域の行事や店舗等を紹介する難しさを感じています。
なお、今年2018年の「平兵衛まつり」は10月13日(土)のようです。
https://www.facebook.com/hikarifestival/
投稿: 管理人 | 2018年10月 9日 (火) 07時46分
本来中国の皇帝の正統性を絶対化する理論である朱子学を、日本の天皇の正統性に用いたのは山崎闇斎と考えられており、彼によれば、徳川将軍は天皇の「代理人」に過ぎず、それが天皇の正統性を脅かす時は「革命」によってそれを倒すべきということになり、それによれば、時の孝明天皇の意に反して欧米列強という「夷狄」に通じようとした徳川幕府は革命によって倒すべきということになり、それが「尊王攘夷」思想となっていったところで、
そろそろ貴ブログ記事のアクセスランキングを見ると、昨年の平兵衛まつりの記事がトップ3に入っており、恐らく今年の平兵衛まつりの日程はいつか?ということで検索した末に貴ブログに辿り着いたものと思われ、中にはいつまでたっても今年の平兵衛まつりに関する記事が立たないことに業を煮やされている読者の方もいらっしゃるかもしれないが、平兵衛まつり2018は【10月13日(土)】開催予定であることにも言及頂きたいかと…。
投稿: | 2018年10月 8日 (月) 20時56分