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2018年5月30日 (水)

「伊豆の踊子」で再度勉強しています

 小説「伊豆の踊子」は当時の時代背景もありますが、川端康成自身が語るよう001204203200_に孤児根性による、劣等感、自己嫌悪、偏見、差別、優越感、そして自信回復などの複雑な感情が表現された作品と思います。
 特に、川端ファンという訳ではありませんが、身近に「伊豆の踊子」の舞台・湯ケ野温泉の「福田家」に縁の事務員がいることから、久々に「伊豆の旅」に収録された「伊豆の踊子」を読み直しています。最初は教科書だったはずで、当時は〈〉こと学生と踊子の、成就しない恋情を絶妙なタッチで描いた小説として読んだ記憶があります。
 その後も、幾度も映画やドラマ化された作品も鑑賞していますが、再度、読み返すと見方は相当に変化していることを実感しています。まずは、流石に、後にノーベル文学賞受賞作家の作品と思わせ、一字一句、句読点にまで意味がありそうです。
 数個所に注目しますと、Izuno_odoriko_image
 天城峠の茶屋の婆さんが、「あんな者、どこで泊まるやら分るものでございます」という蔑視の言葉に〈〉は、「それならば、踊子を今夜は私の部屋に泊まらせるのだ、と思った」ことを〈〉は正直に吐露しています。そして、踊子と知合った、その夜の「福田家」の御座敷に踊子達はお呼びがかかります。
 「ああ、踊子はまだ宴席に座っていたのだ。座って太鼓を打っているのだ。」 
 太鼓が止むとたまらなかった。雨の音の底に私は沈みこんでしまった。やがて乱れた足音が暫く続いた。そして、ぴたと静まり返ってしまった。私は目を光らせた。
 この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。
 踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった

 と語るほど、一人悶々とした思い入れを正直に語ると、その翌日には、
 「手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、---中略---ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけ喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。、---中略---私はとんでもない思い違いをしていたのだ。」
 と〈〉は安堵し、悶々とした不純な思いを長文で言い訳しています。
 そして以後は、踊子に妹を想うような心に変化し、「いい人」に思わせる振る舞いに努めています。ところが、「Image10235中、ところどころの村の入り口に立札があった。物乞ひ旅芸人村に入るべからず」の看板や、村人の旅芸人への偏見などは、当時のエリート学生と旅芸人の程遠い距離感を表現しています。その差別や距離に気づいた〈〉は、一校の制帽から鳥打帽を買ってかぶり、エリート意識を捨てて旅芸人と同じ目線になろうとしています。しかし、様々の触れ合いがあっても、埋めることが出来ない身分差、立場の違いに気付たはずです。下田港の別れの場面で、鳥打帽を踊り子の兄に贈り、カバンから一校の帽子を取り出して被ることで踊子達との決別を意味し、学生の本文に戻る決意を表現したと思われます。
 また、川端康成自身の婚約破談の痛手からの決別でもあったのでしょうか。
 更に、〈〉は孤児根性による劣等感も、踊子に「いい人」と認められ、精神的に成長し、自信回復したことを語ります。その文章として、
 そこへ、「お婆さん、この人がいいや。」と、土方風の男が私に近づいて来た。
 
---中略---霊岸島へ着いたら、上野の駅へ行く電車に乗せてやってくんな---中略---ぽかんと立っている婆さんの背には、乳飲み子がくくりつけてあった。下が三つ上が五つくらいの二人の女の子が左右の手につかまっていた。きたない風呂敷包みから大きい握り飯と梅干とが見えていた。五六人の鉱夫が婆さんをいたわっていた。私は婆さんの世話を快く引き受けたImage0000258
 
とあり、下田港での別れの場面に水を差すような長い文章が加わります。そして、船が霊岸島(中央区新川)に着いたら、〈〉が、お婆さんを上野駅に行く電車に案内する約束をしたことで、人に親切に生きる決意を強調したと思わせます。
  後に、川端康成は「湯ヶ島の思ひ出」で、
 
そんな「私」は、伊豆の旅で人の好意にふれ、「こんな人間の私に対しても」と、「ありがたい」と感じます。「感傷の誇張が多分にあると気づいて来た。長い病人でいたほどでもないと思うようになったのである。これは私によろこびであった。私がそれを気づいたのは、人々が私に示してくれた好意と信頼とのお蔭である。これはどうしてと私は自分をかえりみた。それと同時に私は暗いところを脱出したことになったのである。私は前よりも自由にすなおに歩ける広場へ出た。」、「下田の宿の窓敷居でも、汽船の中でも、いい人と踊子に言われた満足と、いい人と言った踊子に対する好感とで、こころよい涙を流したのである。今から思えば夢のようである。幼いことである。」と述懐し、伊豆の旅がキッカケで自信回復したことを述べています。
 小説「伊豆の踊子」は大正15(1926)年発表です。川端康成が伊豆を旅したのは大正7年秋ですから、実に8年後の小説化です。この長い期間に何があったのかと想像するに、自身が語るように、病的な孤児根性や体重約41㎏という虚弱体質で徴兵失格などの劣等感から脱して、自信回復を実感してプライベートを切り売りしがちな小説家でも自信を持って生きる決意をした作品と見ることも出来ます。
 なお、川端康成が1968年にノーベル文学賞を受賞した際のノミネート作品は『千羽鶴』だそうです。何故、代表作の『伊豆の踊子』や『雪国』ではないのか??、受賞理由の公表は受賞から50年後ですから2019年以降のはずです。平和賞や文学賞は基準が曖昧と言われていますので、何故、受賞したのかは近く解明されるはずです。■https://www.youtube.com/watch?v=ycmGLVhSVTw&index=145&list=PLCU8hXPsdV0FYWJKEviLNeDgkj690KS7n
■Japanese Old Film 伊豆の踊子 Izu no Odorikko 1993
https://youtu.be/ObO-KxTsNkU

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コメント

『伊豆の踊子』の英題名は The Izu Dancer であり、また福田家といえば光町通りにある蕎麦屋しか思い出せないが(ただしこちらは正しくは福田屋)、それはさておき、今でこそ伊豆方面へは東京や新宿から東海道線や伊豆急行を経て行けるので、作中にある下田から東京の霊岸島まで船で行くという描写に違和感を感じるかもしれないが、かつて東海道線は国府津から現在の御殿場線のルートを通っており、大正9年にやっと小田原まで開通したのであり、そこからさらに豆相人車鉄道という人力の鉄道でやっと熱海まで行けるような状況であったため、伊豆半島へはもっぱら霊岸島の汽船発着所から東京湾汽船(現在の東海汽船の前身)で行くのが一般的だったところで、そろそろこの霊岸島はアメリカの大統領とは無関係であるが、御社を始めとする建設業界とは間接的に関係しており、すなわちここの量水標(現在は油壺の験潮場)で計測された東京湾平均海面を標高0メートルとして国会議事堂前庭にある日本水準原点の標高が求められ、これを基準にして土地や山岳の標高が求められるのであって、それによれば国立駅付近の標高は75メートル、八王子駅付近の標高は110メートルになり、中央線はこの間に30メートルも登ることになることにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年5月30日 (水) 13時00分

大日建設(株)杉山
「霊巌島」のことは、小説「伊豆の踊子」に出て来る地名から知りました。この島は、江戸初期に隅田川河口付近の湿地帯を埋め立てたところで、浄土宗の雄誉霊厳上人が霊巌寺という寺院を建てたことが始まりとされます。その霊巌寺は「明暦の大火」後、江東区深川に移転しており、その後、付近一帯は埋め立てが進み宅地化も進み、戦後には新川も埋め立てられ、霊岸島は全域が地続きとなり、地名も「中央区新川」に変更され、今は「霊岸島交差点」や「霊岸橋」に名残があるそうです。
 かつて、「霊巌島」には1889年(明治22年)に東京湾汽船会社が設立され、霊岸島汽船発着所が置かれて房総、伊豆半島、大島、八丈島などへの航路で賑っていましたが、その発着所も昭和11年芝浦桟橋に移転しています。
 また、玉川上水は羽村から四谷までの43kmを高低差92メートルを利用した流れを造ったそうです。100mごとに21cm下る勾配をどんな技術で掘り進めたのか、先人の知恵とご苦労には頭を垂れるだけです。

投稿: 大日建設(株)杉山 | 2018年5月30日 (水) 15時03分

玉川上水がこれだけの距離で僅かな高低差を開削するには当然ながら高度な測量技術が必要となり、杉本苑子著『玉川兄弟』などでは夜間に提灯、線香を灯してそれを目印に測量したとの描写がなされているが(都内の公立小学校の社会科教材でもそのようになっていると思われるが)、最近では、その当時からもう紅毛流と呼ばれる測量術がオランダから入ってきており、この提灯線香測量には疑義が呈されているところで、そろそろこの玉川上水開削の成功は武蔵野台地の分水嶺、山岳で言うところの尾根筋をうまく掘り当てたことにもあり、すなわち原則としてこの玉川上水より北側に降った雨は荒川に注ぎ、南側に降った雨は多摩川に注ぐのであり、また尾根筋に上水があることからそこから分水を引けば自然流下で多くの田畑を潤すことができ、中藤新田分水、榎戸新田分水、そして平兵衛新田分水などで開かれたのが他ならぬ御社近辺の平兵衛新田(現・光町)であり、唯一の例外が上水より北側に水源がありながら多摩川に注ぐ残堀川で、流路の途中で玉川上水と十文字に交差(玉川上水側がサイホンの原理でアンダークロス)しており、この残堀川の水源から5キロほどしか離れていない所に水源がある空堀川は荒川に注いでいることにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年5月30日 (水) 18時25分

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