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2018年5月 3日 (木)

久々に「牛にひかれて善光寺」

 先日、芭蕉が「月影や 四門四宗も 只一つ」と詠んだ、無宗派20180501_img_2善光に久し振りに参拝してきました。以前はボンヤリと出かけていましたので、今回は、「お朝事(おあさじ)」、「お数珠頂戴」、「びんずる尊者」(撫で仏)、「龍の戸張後方の内々陣の御三卿や守屋柱の確認」、「戒壇巡り」、「経蔵の輪蔵を回す」等々を一つひとつを体験しようと欲張って参拝して来ました。それにしても善光寺は、「不便な信州になぜ建てた」、「建てた本田善光(よしみつ)とは」、「本尊が中央でなく守屋柱が中央の理由」、「守屋柱と戒壇めぐりとは」、「諏訪の守屋山との関係は」・・・など何かと謎が多い寺で、昔から「遠くとも一度は参れ善光寺 救いたもうは弥陀の誓願」とされ、創建は642年ですから古い話しです。御本尊の絶対秘仏一光三尊 (いっこうさんぞん) 阿弥陀如来は43cmと小さくても、創建時は宗派・宗門の区別が無かったので、芭蕉も「四門・四宗も只一つ」と詠んだり、参拝の動機が不純であっても、後に信者になったという牛にひかれて善光寺参りも面白い逸話です。 
 なお、建立のキッカケは仏教が伝来した当時に遡り、仏教容認の蘇我馬子と神道護持派で廃仏派の物部守屋は権力闘争を展開し丁未(ていび)の乱(587年)に発展。敗れた物部守屋は殺されたことで、物部氏の末裔が物部守屋の鎮魂のため、大黒柱(守屋柱)の下に守屋の首を埋めて建立したとされます。「戒壇めぐり」は、この守屋柱やご本尊を参拝者が一周することで結界を張っているとされ、真っ暗な回廊を進み、ご本尊真下の鍵前に触れることで再び明かるさを取り戻す体験は、参拝の動Image機はどうでも(この世)の有り難さを表現していると感じさせました。
 因みに、日本最古の寺は蘇我馬子が建てた奈良の飛鳥寺か、聖徳太子による官立の難波の四天王寺かとされ、秘仏の「一光三尊阿弥陀如来」像は、最初は四天王寺で祀ったのに、廃仏論の物部守屋から難波の堀へ捨てられ、後に信濃国の本田善光が拾い上げ、当初は飯田市の元善光寺でお祀りしてましたが、更に、現在の地に遷座したことで善光(よしみつ)の名から善光寺と名付けたそうです。善光寺の本堂建立の642年当時は、聖徳太子の死後で蘇我氏の横暴な振る舞いから天皇を困らせていたとされ、それを見かねた中大兄皇子と中臣鎌足が中心になり、儀式の最中に蘇我入鹿を暗殺した大化の改新(645年)というクーデターもありました。Moriya_image

長野・善光寺と牛の由来!「牛に引かれて善光寺まいり」の意味とは?

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コメント

「牛に引かれて善光寺参り」の伝説が残る小諸市の布引観音は奈良時代に行基により開かれたと伝えられるが、この「行基」こそが奈良時代の仏教を語る上でのキーパーソンであって、数々の寺院建立の他、有馬、湯河原、草津などの温泉開湯伝説も残っており、その他にも貧民救済、治水・架橋・港湾整備、「行基図」と呼ばれる日本地図作成などの社会事業も行ったことから民衆に絶大な人気があり、時の朝廷はそれらが反政府勢力になることを恐れて弾圧を行ったものの屈せず、逆に聖武天皇はその人気を利用し、彼に「大僧正」という最高僧位を与え、当時の「国家プロジェクト」である「東大寺大仏建立」に抜擢したところで、そろそろその行基が聖武天皇の詔をもって開いた寺の一つが他ならぬ高尾山薬王院であり、当初は薬師如来を本尊としたことが薬王院の名の由来であるが、その後「飯綱大権現」に本尊が変わり、その由来は他ならぬ善光寺の北にある山岳信仰地・飯綱山であることにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年5月 3日 (木) 16時35分

大日建設(株)杉山
高尾山は、奈良時代の高僧・行基の開山以来「薬師如来」が本尊でしたが、約600年後の1375年、京都の醍醐寺から俊源大徳が入り「飯縄大権現」を本尊とし、荒廃した高尾山を修復し中興の祖と言われています。この「飯縄大権現」は、信州・善光寺の北方の飯綱山、戸隠山一帯の山岳信仰に発していますが、開山は伝説の徐福とも役行者とも言われています。
「役行者 (役小角)(えんのおづぬ)」は山で修行する者、山伏の始まりとされる修験道の開祖とされ、
貧民救済・治水・架橋をはじめ日本地図や東大寺の大仏を造った「行基」、
宗教的天才として日本中に痕跡を残した「空海」は、
いずれもスーパースター(超人)です。生没は、役行者(634年~701年)、行基(668~749年)、空海(774~835年)と年代が近接しており、きっと後に続いた行基(ぎょうき)や空海は役行者 (役小角)を意識していたことでしょう。また、役行者 (役小角)は、先に出羽三山を開いた聖徳太子の従兄弟・蜂の子皇子(能除太子)を意識していたとされます。
 なお「山岳信仰」の地として、吉野金峰山、熊野三山、出羽三山、戸隠山・飯綱山が代表的な霊山ですが、最近では高尾山も「都心から近距離ながら豊かな自然が残る」として、2007年、ミシュランで3つ星を獲得し世界的な観光地として注目を浴びています。何度も参拝していますが、近く、あらためて参拝したいと思います。

投稿: 大日建設(株)杉山 | 2018年5月 4日 (金) 10時47分

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