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2018年5月

2018年5月30日 (水)

「伊豆の踊子」で再度勉強しています

 小説「伊豆の踊子」は当時の時代背景もありますが、川端康成自身が語るよう001204203200_に孤児根性による、劣等感、自己嫌悪、偏見、差別、優越感、そして自信回復などの複雑な感情が表現された作品と思います。
 特に、川端ファンという訳ではありませんが、身近に「伊豆の踊子」の舞台・湯ケ野温泉の「福田家」に縁の事務員がいることから、久々に「伊豆の旅」に収録された「伊豆の踊子」を読み直しています。最初は教科書だったはずで、当時は〈〉こと学生と踊子の、成就しない恋情を絶妙なタッチで描いた小説として読んだ記憶があります。
 その後も、幾度も映画やドラマ化された作品も鑑賞していますが、再度、読み返すと見方は相当に変化していることを実感しています。まずは、流石に、後にノーベル文学賞受賞作家の作品と思わせ、一字一句、句読点にまで意味がありそうです。
 数個所に注目しますと、Izuno_odoriko_image
 天城峠の茶屋の婆さんが、「あんな者、どこで泊まるやら分るものでございます」という蔑視の言葉に〈〉は、「それならば、踊子を今夜は私の部屋に泊まらせるのだ、と思った」ことを〈〉は正直に吐露しています。そして、踊子と知合った、その夜の「福田家」の御座敷に踊子達はお呼びがかかります。
 「ああ、踊子はまだ宴席に座っていたのだ。座って太鼓を打っているのだ。」 
 太鼓が止むとたまらなかった。雨の音の底に私は沈みこんでしまった。やがて乱れた足音が暫く続いた。そして、ぴたと静まり返ってしまった。私は目を光らせた。
 この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。
 踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった

 と語るほど、一人悶々とした思い入れを正直に語ると、その翌日には、
 「手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、---中略---ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけ喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。、---中略---私はとんでもない思い違いをしていたのだ。」
 と〈〉は安堵し、悶々とした不純な思いを長文で言い訳しています。
 そして以後は、踊子に妹を想うような心に変化し、「いい人」に思わせる振る舞いに努めています。ところが、「Image10235中、ところどころの村の入り口に立札があった。物乞ひ旅芸人村に入るべからず」の看板や、村人の旅芸人への偏見などは、当時のエリート学生と旅芸人の程遠い距離感を表現しています。その差別や距離に気づいた〈〉は、一校の制帽から鳥打帽を買ってかぶり、エリート意識を捨てて旅芸人と同じ目線になろうとしています。しかし、様々の触れ合いがあっても、埋めることが出来ない身分差、立場の違いに気付たはずです。下田港の別れの場面で、鳥打帽を踊り子の兄に贈り、カバンから一校の帽子を取り出して被ることで踊子達との決別を意味し、学生の本文に戻る決意を表現したと思われます。
 また、川端康成自身の婚約破談の痛手からの決別でもあったのでしょうか。
 更に、〈〉は孤児根性による劣等感も、踊子に「いい人」と認められ、精神的に成長し、自信回復したことを語ります。その文章として、
 そこへ、「お婆さん、この人がいいや。」と、土方風の男が私に近づいて来た。
 
---中略---霊岸島へ着いたら、上野の駅へ行く電車に乗せてやってくんな---中略---ぽかんと立っている婆さんの背には、乳飲み子がくくりつけてあった。下が三つ上が五つくらいの二人の女の子が左右の手につかまっていた。きたない風呂敷包みから大きい握り飯と梅干とが見えていた。五六人の鉱夫が婆さんをいたわっていた。私は婆さんの世話を快く引き受けたImage0000258
 
とあり、下田港での別れの場面に水を差すような長い文章が加わります。そして、船が霊岸島(中央区新川)に着いたら、〈〉が、お婆さんを上野駅に行く電車に案内する約束をしたことで、人に親切に生きる決意を強調したと思わせます。
  後に、川端康成は「湯ヶ島の思ひ出」で、
 
そんな「私」は、伊豆の旅で人の好意にふれ、「こんな人間の私に対しても」と、「ありがたい」と感じます。「感傷の誇張が多分にあると気づいて来た。長い病人でいたほどでもないと思うようになったのである。これは私によろこびであった。私がそれを気づいたのは、人々が私に示してくれた好意と信頼とのお蔭である。これはどうしてと私は自分をかえりみた。それと同時に私は暗いところを脱出したことになったのである。私は前よりも自由にすなおに歩ける広場へ出た。」、「下田の宿の窓敷居でも、汽船の中でも、いい人と踊子に言われた満足と、いい人と言った踊子に対する好感とで、こころよい涙を流したのである。今から思えば夢のようである。幼いことである。」と述懐し、伊豆の旅がキッカケで自信回復したことを述べています。
 小説「伊豆の踊子」は大正15(1926)年発表です。川端康成が伊豆を旅したのは大正7年秋ですから、実に8年後の小説化です。この長い期間に何があったのかと想像するに、自身が語るように、病的な孤児根性や体重約41㎏という虚弱体質で徴兵失格などの劣等感から脱して、自信回復を実感してプライベートを切り売りしがちな小説家でも自信を持って生きる決意をした作品と見ることも出来ます。
 なお、川端康成が1968年にノーベル文学賞を受賞した際のノミネート作品は『千羽鶴』だそうです。何故、代表作の『伊豆の踊子』や『雪国』ではないのか??、受賞理由の公表は受賞から50年後ですから2019年以降のはずです。平和賞や文学賞は基準が曖昧と言われていますので、何故、受賞したのかは近く解明されるはずです。■https://www.youtube.com/watch?v=ycmGLVhSVTw&index=145&list=PLCU8hXPsdV0FYWJKEviLNeDgkj690KS7n
■Japanese Old Film 伊豆の踊子 Izu no Odorikko 1993
https://youtu.be/ObO-KxTsNkU

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2018年5月24日 (木)

言霊信仰が異常に強い「日本」 

 日本人は「良い言葉を口にすることで、未来が拓ける」、よって、弱気や汚い0000204203200_葉は使うものでないとする言霊(ことだま)信仰が強い国とされます。
 これは、日常生活や皮膚感覚に染み付き、完全に同化しているように思えます。例として、受験生の前では絶対に「落ちる」という言葉は使えません。勿論、スポーツ等の試合で「負ける」など弱気の言葉は嫌われます。結婚披露宴の挨拶でも「別れ」という言葉は禁句です。なぜなら、「落ちる」「負ける」「別れる」などのネガティブでマイナスの言葉は現実化すると信じているからです。
 また、殆どの宗教でも、祝詞・呪文・祈り・お経・お題目などの言葉を声にして発しています。例えば、日蓮系は「妙法蓮華経」、浄土系は「南無阿弥陀仏」と唱え、真言系では「ノウマク・サマンダ・ボダナン・」などの仏陀の真の言葉とされるマントラ(真言)を唱えることで、仏陀の真の教えに近づくとされます。きっと、教祖様の尊い言葉を繰り返し繰り返し唱えることで、悟りの境地に至るという呪文のようなものでしょうか・・・・。そして、この精神の植え付け効果を期待してなのか、一般企業でも社是や社訓などを、毎日お経の如く唱えているところもあります。00000000000009338260_2
 何も、言霊信仰を全否定するつもりは毛頭なく、古代からの精神が社会に息づいている日本は素晴らしいと思っております。しかし一点、疑問を投げかけますと、「憲法九条の改正議論」や、「有事法制の整備」を討論するだけで、戦争が起きるとする発想は何をか言わんやで、正に言霊信仰の悪影響と思われます。個人的には、米韓首脳会談で北朝鮮に対して「完全で検証可能かつ不可逆的な核廃棄(CVID)」が実現するとともに、北朝鮮にさらわれた拉致被害者全員の早期帰国を願って言葉にしています・・・・

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2018年5月22日 (火)

キリシタン大名は奴隷貿易商

 今も絶えない世界の紛争の殆どは、欧米先進国の思想や宗教などの価値観の押しつけ、00002015021421562836d_2領土拡大、資源権益の確保と言われ、その先兵となる宣教師は宗教の衣を被ったスパイと言われています。 
 日本の歴史教科書などでは、豊臣秀吉や徳川家康(江戸幕府)が、「キリスト教徒を」「踏み絵をさせた」など宗教弾圧をしたとだけ教えていますが、殆どの宗教に寛容だった日本が、単に布教に来ただけの宣教師や、それを信じた信者を理由もなく弾圧するはずがありません。
 弱肉強食の戦国の世にあって、豊後国の大友宗麟、肥後宇土の小西行長、大阪高槻城の高山右近らに代表されるキリシタン大名を、高い倫理観の持ち主でロマンある人物かのように、歴史小説やドラマなどの多くが美化して伝えています。しかし、当時の宣教師は、まず大名に南蛮(ポルトガル)密貿易による利益が大きいことを取引にして、まず入信させてから、家臣や領民を改宗させる手法をとり、日本では入手困難な火薬の材料、硝石、武器などの密輸を行00000048858911_2う一方で、資源が少ない日本からは、日本人女性らの大規模な奴隷輸出で暴利を貪っていたそうです。
 15世紀当時、西欧の白人国家では、スペインとポルトガルが二大列強として世界を二分し、植民地政策が始まっていました。アジアでは、ポルトガルはインドやマカオを、またスペインはフィリピンを一早く植民地にして、更に植民地拡大の野望から、まず宣教師を密入国させて布教+スパイ活動を行いつつ、虎視眈々と日本侵略を企てていました。ところが、豊臣秀吉が九州の島津征伐のおり、長崎のキリシタン大名・大村純忠の領内で、キリスタンによる神社・仏閣の破壊や多くの日本娘らを奴隷として世界中に売却するなどの商売をしていたことを知り愕然とし、バテレン追放令を発令、宣教師の国外追放を令じ長崎を没収したのでした。Image2
 また徳川幕府は、1637年(寛永14)の「島原の乱」を12万の大軍をもって鎮圧してキリシタン王国の夢を断ち切っています。これらキリシタン大名によって50万人以上の日本娘を家畜のように世界中に売却したという記録もあります。何もアフリカの黒人だけが奴隷にされたのではなかったのです。
 この悲惨な歴史を、まるで宣教師や信者が被害者のような教え方をしているのが、今の日本です。それに、日本が植民地にされなかった大きな理由は、秀吉や家康が禁教という強気の対応をしたことや日本全域を侍集団が重武装していたこと、更には、アッいう間に火縄銃を大量に造るなど高い能力を恐れたこととみられています。Photo
 徳富蘇峰の『近世日本国民史 豊臣氏時代.乙篇』に、レオン・パゼーが著した『日本耶蘇教史』の付録に載せた文書が引用されています。この文章は、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されています。
 「ポルトガル人の商人はもちろん、その水夫、厨奴らの賎しき者までも、日本人を奴隷として買収し、携え去った。而してImage3その奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼らを無暗に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に籠居(ろうきょ)せしめ。而してその持ち主らが一たび病に罹(かか)るや――持ち主の中には、ポルトガル人に使役せらるる黒奴(こくど:黒人奴隷)も少なくなかった――これらの奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食糧さえも、与えざることがしばしばあったためである。この水夫らは、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いを逞しうして、あえて憚(はばか)るところなく、そのマカオ帰港の船中には、少女らを自個の船室に連れ込む者さえあった。予は今ここにポルトガル人らが、異教国におけるその小男、小女を増殖――私生児濫造――したる、放恣、狂蕩の行動と、これがために異教徒をして、呆然たらしめたることを説くを、見合わすべし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/214

南蛮貿易と日本人奴隷 〜日本人女性50人で火薬1樽〜
【CGS ねずさん 日本の歴史 7-1】
 https://youtu.be/RS5Io8aQfWw.

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2018年5月21日 (月)

伊豆の踊子の宿「福田家」のこと

 先日、旧友が「今年は伊豆の福田旅館に泊まって河津桜を見て来た」と語りますと、聞いていたImage1事務員が「福田家は私の遠縁なんですよ」と話しに加わって来ました。この事務員の両親が伊豆出身と聞いてはいたのですが、川端康成が大正7年に長期滞在して「伊豆の踊子」を執筆したり、太宰治、井伏鱒二、三好達治ら、錚々たる文人が利用した老舗旅館の縁戚とは迂闊にも知らなかったのです。更に続けて、「父の生家は福田家の分家で、福田家とは同姓でした。それに、戦後間もない頃は祖父の兄弟が経営者で、両親とも近所Fukudaya_7だったので、先々代の女将さん夫妻の媒酌で結婚してから上京したそうです。」と語ったのです。
 まるで、元祖「天城越え」のようです。
 旅館「福田家」は明治12年創業。「伊豆の踊子」では「小川のほとりにある共同浴場の横の橋を渡った。橋の向こうは温泉宿の庭だった」と描かれ、小説の殆どは、この旅館や湯ヶ島温泉を中心に話しが展開しています。知られたことですが、川端康成は少年期に両親ら全員と死に別れて孤児となり、旧制一高の19歳当時、癒しを求めて伊豆を旅し「福田家」に長期滞在。その後も頻繁に訪れて、23歳で「湯ヶ島での思ひ出」を発表。更に27歳で「湯ヶ島での思ひ出」をベースにした小説「伊豆の踊子」を発表しています。
 何を小説の題材にしたのかと考察すると、天城隧道辺りで偶然に旅芸人一座と知り合い、福田家に滞在中も踊子の舞を観察したことなどが発想になったと一般的に推測されています。しかし、事務員が語るには、「体験記なのでそうでしょうが、川端康成が逗留した当時の福田家には、10歳前後の三人姉妹がいたはずで、この娘たちや女将さん方が一学生でも分け隔てない家族的な御もてなしが、孤独感を癒して書く力を貰ったはず・・・」と語っています。そして、有名なアナウンサーも、この家で育っているのですが、これ以上は関係者に迷惑をかける虞もありますから伏せたいと思Image1_2います。
 偶然にも、5月19日NHK放送のブラタモリは「天城越え」でした。河津町梨本の郷土史家・稲葉修三郎(91歳)さんが、伊豆を南北に遮断していた天城峠を貫く天城隧道が完成して間もない頃、初めて通った当時を振り返り「井の中の蛙(河津)大海を知らずでした」と語っていました。事務員も、久しぶりに「天城越え」して、ご先祖の墓参りを兼ねて、両親の出身地の河津町大鍋や福田家辺りを訪問したいと語っています。
■ラジオ図書館 199111 伊豆の踊子https://youtu.be/UPVDG2CyLxsIzuno_odoriko_image
吉永小百合/伊豆の踊子https://youtu.be/HCeuK2WpvCs
■小説「伊豆の踊子」から抜粋000204203200_
  湯ヶ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下りだった。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。私と男とは絶えず話し続けて、すっかり親しくなった。荻乗梨本なぞの小さい村里を過ぎて、湯ヶ野のわら屋根が麓に見えるようになったころ、私は下田までいっしょに旅をしたいと思い切って言った。彼は大変喜んだ。湯ヶ野の木賃宿の前で四十女が、ではお別れ、という顔をした時に、彼は言ってくれた。「この方はお連れになりたいとおっしゃるんだよ。」
 「それは、それは。旅は道連れ、世は情。私たちのようなつまらない者でも、ご退屈しのぎにはなりますよ。まあ上がってお休みないまし。」とむぞうさに答えた。一時間ほど休んでから、男が私を別の温泉宿へ案内してくれた。
 それまでは私も芸人たちと同じ木賃宿に泊まることとばかり思っていたのだった。
 私たちは街道から石ころ路や石段を一町ばかりおりて、小川のほとりにある共同湯の横の橋を渡った。橋の向こうは温泉宿の庭だった
。---中略----
 彼に指ざされて、私は川向うの共同湯の方を見た。
 湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮んでいた。仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊り子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がる程に子供なんだ。
 私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。
 微笑がいつまでもとまらなかった。
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2018年5月19日 (土)

日本に学べ「ルック・イースト政策」

 マレーシア連邦の警察当局は5月16日、ナジブ・ラザク前首相の自宅やMalaysiamap関連先5ヵ所を巨額の汚職疑惑で捜索したと報じられまた。先般、92歳のマハティール氏が勝利したのも、前首相の不正を許さないとする国民の支持が強かったのでしょう。
 さて、世界の目はASEANの主要国であるマレーシアシンガポールに注目が集まっています。シンガポールは戦略的位置付け等から米朝首脳会談の場所として決まり、また、マレーシアは92歳のマハティール首相が再登場したことです。シンガポールは建国の父・故・リー首相の「グローバル主義」は息子のリー・シェンロン首相に引き継がれ、また、マレーシアのマハティール首相は22年間の政治経験を生かして、「アジア主義」、日本の勤勉さを見習えとする「ルック・イースト政策(Look East)」を掲げて再登場です。このルック・イーストには、アジア諸国は独立後、国造りを西欧に学ぼうとする「ルック・ウエスト」の傾向が強かったことを批判していると言われています。
 そして早速、マレー半島高速鉄道計画などの受注に関して、「全ての国と等しく友好関係を保つことを外交政策の基本に据える」と強調していました。これは、近年のマレーシアは、中国に傾斜していたことを暗に批判したコメントでしょう。20180515093421b38
 また、同氏は1992年、香港で行われた『もし 日本なかりせば』と訳された大東亜戦争の本質を喝破したスピーチが有名です。
■マレーシア マハティール首相のスピーチの抜粋
 過去のヨーロッパ中心の世界では、東アジアとはすなわち極東だった。そして極東は、異国情緒あふれる中国と竜のイメージ、お茶、アヘン、高級シルク、風変わりな習慣を持った珍しい人々など、奇妙で神秘的な印象を思い起こさせる場所だった。いまや極東は東アジアになり、 気の毒だがヨーロッパのロマンチストの興味は減った。
 その代わりに政治家とエコノミストの関心の的となっている。
 ヨーロッパがアジアに対して懸念を抱いている事実は、この地域が、すでに今世紀前半の日本軍国主義以上に深刻な脅威になっていることを示唆している。こうした見方の底流には、不信感と恐怖がある。その理由は、東アジアの人々が自分達とは異なっている、つまり。ヨーロッパ人ではないという点にある。そのため第二次世界大戦後の枢軸国であったヨーロッパのドイツとイタリアが平和国家となって復興、繁栄するのは応援、歓迎されたのに、同じように平和国家となった日本と極東の「小さな日本」の経済発展はあまり歓迎されないように見える
。----中略----
 「東アジア諸国でも、立派にやっていけることを証明したのは日本である。
 そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも、他の世界各国も驚くような成功を遂げた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。もし、
日本なかりせば世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう
 演説には、大東亜戦争への評価と白人支配の歴史批判が含まれています。
 また、平成6年(1994年)にマレーシアに訪問した村山富市首相(当時)と土井たか子衆院議長(当時)は型どおり謝罪するとマハティール首相はこう述べました。
 「日本が五十年前に起きたことを謝り続けるのは理解できない。過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ」「日本に対して今さら戦後賠償を求めるようなことは、わがマレーシア国民にはさせない。」・・・・このマハティール首相の言葉に村山総理と土井議長は何の言葉も返せませんでした。しかも村山総理はシンガポールで華僑ゲリラの慰霊碑に謝罪を述べています。これにも、「死者に対して慰霊するのは構いませんが、違法であるゲリラに謝罪するなどキチガイ行為です。東南アジアは華僑を追い出すのに多大な苦労してきており、ゴキブリのように侵入してくる華僑をブロックしたい思いがあります。」と語っています。
 これは最近、北海道などで、広大な農地やゴルフ場、自衛隊基地近くの森林などが中国系資本により次々と買収されている現実がありますから参考にすべきです。

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2018年5月16日 (水)

宗教の知識は殆どありません。

 最近、宗教関連の記事を多くしたり、また大日の社名からも、何か宗教にPhoto凝っている人と思われがちです。実際は、実家が富士宮市北山の日蓮宗・北山本門寺の敷地北東に隣接し、ご先祖が代々お世話になっている程度の檀信徒の一人です。
 北山本門寺は、日蓮が没した地である大田区池上の池上本門寺、千葉県市川市の中山法華経寺などと並び日蓮宗大本山に数えられる由緒ある寺院です。日蓮は20歳~32歳までの12年間、比叡山で天台宗(又の名は法華宗)を通じて法華経に基づく仏教を学んでいますが、天台宗が密教の真言に染まっていくことを嫌って比叡山を下りて、法華経こそが釈迦の真の教と信じて日蓮宗を興したとされます。また、富士宮市西山には、 日興上人の弟子・日代(にちだい)が興した日蓮宗・西山本門寺もありますが、北山本門寺との違いは知りません。また、日蓮宗と日蓮正宗(しょうしゅう)は名前が似ていても、その違いも知りません。すぐ近くには、日蓮正宗の本山大石寺(たいせきじ)もありまして、創価学会のセ御本尊問題などで対立していることは知っています。仏教本来の目的は民衆救済である原点に返れと宗教改革を訴え、「念仏無間、禅天魔Epson073_jpg1、真言亡国、律国賊」と「四箇格言(しかのかくげん)」を叫んだ日蓮は、混乱した今の現状をどう見ているのでしょうか。
 この大石寺も、北山本門寺も日蓮の高弟・日興が興した寺なのに、大石寺は弟子の日代に譲っていますが事情は知りません。なお、北山本門寺を開山した日興上人は、「南無妙法蓮華経」の7文字に因んで、7本のスギを植樹した「題目杉」のことは子供当時から知っています。また、境内には3代将軍徳川家光の側室、4代将軍徳川家綱の生母・宝樹院の霊廟もあります。宝樹院は娘時代は「」、家光を生んでからは「お楽の方」と呼ばれています。「お楽の方」は13歳当時、春日局が浅草観音参りの途中、店00002586番をしていたところを見初められ、大奥に上がって家光の側室になった方でした。霊廟の隣には杉山家代々の墓地がありますから、何か御縁を感じております。結びとして、宗教は友達を選ぶことと似ているもので、良い影響を受ける効果と、選び方を間違えると、逆のときもあるという説明は分かり易いと思います。
仏教を少し勉強したいと思います。: 大日建設の社長日記
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2018年5月15日 (火)

教誨師(きょうかいし)のこと。

 教誨師(きょうかいし)とは、死刑囚と面接する牧師や神父、僧侶、神官など、宗教家に20180412kyoukaishi_fullよる無報酬の仕事とされます。死刑の判決が下された囚人は、この教誨師と面接して対話することで、悔悟を促し教え導くとされ、刑の執行にも立ち会い最期を看取るそうです。知られた話として「吉展ちゃん事件」の小原保死刑囚は、最初は教誨を拒み続けたのに、最後は仏教系の教誨師に見とって欲しいと希望しています。また、女性8人を連続殺害した大久保清死刑囚は教誨を拒否していたので、死刑執行では教誨師の立会なしで執行しようとしたところ、浄土真宗の渡邊普相(ふそう)教誨師は刑場に押しかけて、「教誨師が立ち会うから刑の執行なのだ。教誨師が居ない刑は刑務官も殺人者だ」と叱って、お経を上げつつ執行したそうです。
 さて、オウム真理教関連事件の死刑囚13人のうち7人が、3月中旬一斉に00002674edb2e1刑場のある拘置所へ分散移送されたことで、刑の執行が近いと見られています。移送されたのは、仙台に林(現・小池)、名古屋に岡崎(現・宮前)と横山、大阪に井上と新実、広島に中川、福岡に早川でしたが、このオウム真理教に熱心な信者の死刑囚には、どのような立場の教誨師を選択、或いは立ち会うのでしょうか・・・・・
 仏教系、キリスト教系、神道系、それとも・・・・・
 また、今年2月に亡くなった俳優・大杉漣さんの最後の主演作は、6人の死刑囚と対話した教誨師が主人公の映画「教誨師」も話題です。死刑囚を教え導く言葉に、仏教系では自利即利他の教えがあるとされ、キリスト教系では、イエスは磔になって神になった話しや、イエスと一緒に二人の罪人も磔になりますが、この二人は最初はイエスを罵倒していたのに、最期のギリギリの場面でイエスの言葉を3_16信じたという話もされるそうです。大杉漣さんは、役作りのため現役の教誨師に直接取材したり、聖書を勉強したそうですから、きっと、映画でも聖書から多くを引用して語るはずです。大杉漣さんは最後に、映画「教誨師」の役を通じて聖書を勉強されたことも、何かの御縁だったのでしょう。
 なお、映画『教誨師』の公開は今年の10月6日からだそうです。

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2018年5月13日 (日)

「善光寺如来尊」の本物は何処?

 山形・米沢藩主上杉家の菩提寺・八海山法音寺(本山は奈良・長谷15226566741寺)で、この5月15日、年に一度の『秘仏 善光寺如来尊』御開帳の特別拝観があると知りました。八海山 法音寺のホームページには、「天文二十(1551)年、川中島の戦いの折、信州中野城主・高梨政頼は戦国の兵火を避けるため、信濃善光寺のご本尊を上杉謙信公に奉じた。謙信公は春日山に如来堂を建ててご本尊を懇ろに奉祀するとともに深く尊信し、厳重に守護した。」とあります。
 先日、信濃善光寺を参拝して来ましたが、日本最古の仏像一光三尊阿弥陀如来像は絶対秘仏だから誰も見たことがないと言われ、御開帳の時に公開される仏像は前立本尊=レプリカのようです。案内の僧侶からも「誰も見たことがない」と説明を受け、龍が刺繍された緞帳の上げ下げも実に素早く、参拝者からは「本当にあるのか」と疑念を持たれることもあるそうです。
 そもそも川中島の合戦は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の間で5度に及ぶ北信濃の支配権を巡る戦いでしたが、実際は善光寺如来の争奪戦だったそうです。そして、戦の前段で上杉軍側は、戦火を避けるため予め善光寺の御本尊や仏具を越後の春日山に移したとされ、それが八海山法音寺の仏像とみられています。
 また、甲斐善光寺は1558年信玄の創建で、このとき信州善光寺から、ご本尊、鐘楼、仏具、僧侶までも一時移したとされますが、既に本物の御本尊は上杉軍が春日山に移していたので、信濃善光寺の御本尊は前立本尊=レプリカと見られます。
 果たして、天竺より百済を経由して、仏教伝来と共に日本に渡って来たという絶対秘仏善光寺如来の本物は何処に祀られているのでしょうか・・・・
八海山法音寺~山形県米沢市御廟1-5-32
甲斐善光寺~山梨県甲府市善光寺3-36-1
信濃善光寺~長野県長野市元善町491
 そろそろ、放射性炭素年代測定を使ってでもハッキリさせて欲しいものです。Honzon_image_2
 また、信濃・善光寺は丁未の乱(587年)で殺害された物部守屋の鎮魂の寺とされます。本堂の祭壇中央には、物部守屋の首が埋めた上に建てた守屋柱があり、その左側に一光三尊阿弥陀仏像。それら全体を見守るように、右側に百済から亡命して来た百済王とされる本田善光と家族の像が横並びに置かれています。そして、これら全体を参拝するように配置された祭壇も珍しいことです。これは先祖供養の観点からも物部守屋と本田善光は同族の可能性もあります。7imageG0honzin_image

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2018年5月11日 (金)

風評被害の払拭は「情報発信?」

  風評被害とは、一般的に「安全なのに、何かをキッカケに生じる食品や製品の品質、安全性、観光客減少などImageの経済的被害」とされ、これを払拭するには情報発信を強化し、真実を知らせることが大切とされます。その真実を知らせる効果が大きいのは、テレビなど映像による報道ですが、その副産物として、マイナス効果が同時発生する痛し痒しの結果も危惧されます。近年でも、福島第一原発事故の風評被害をはじめ、口永部島・御嶽山・蔵王山・本白根山・阿蘇山、そして、霧島連山の噴火など枚挙に暇がないことです。しかし、積極的な報道には「危険だから接近しない、食べない、購入しない」などの効果もあるもので、横並び批判は難しい問題です。
 現在進行形の問題として、霧島連山・硫黄山の噴火後に白濁した川の水が確認され、宮崎県えびの市内を流れる長江(ながえ)や、鹿児島県伊佐市、湧水町の長江川下流域の川内(せんだい)でも数百匹の魚の死骸が浮かび、環境基準の約200倍のヒ素などを検出したと知りました。そこで、伊佐市や湧水町は、川内川から水を引く農家計約1400戸(計620ヘクタール)の水田で作付けを見送る決定や、伊佐市のカヌー競技場で4月29日に予定されたボートレース大会は中止したそうです。 このような決定は「風評被害を更に大きくする」という意見も地元から出たそうですから、やはり難しい問題です。2018215918
 それにしても、バリ島のアグン山やフィリピン・ルソン島のマヨン山、ハワイ島のキラウエア火山の噴火をはじめ、世界中で地震や火山噴火が続いており、現時点でも、地球上で80数か所で噴火か噴火の徴候があると聞きます。日本でも九州南方の鬼界カルデラ内でも、ドーム状に盛り上がっている兆候と熱水噴火が発見されています。この辺りは、石油タンカーなど船舶の航路線上にあり、且つ、鹿児島湾沿いには、世界最大級の喜入(きいれ)原油中継備蓄基地もありますから、なおのこと憂慮されます。
 なお、農林水産省のホームページでは
食品中のヒ素に関すQ&A   
http://www.maff.go.jp/j/syouan/nouan/kome/k_as/qa.html
 ヒ素は、地球上に広く存在する元素です。自然環境中にあるヒ素を完全に避けることは難しく、飲料水や農畜水00029658_2産物に移行するため、様々な食品には微量のヒ素が含まれています。
(1) ヒ素は自然環境中に広く存在する元素です。地殻中に分布しており、火山活動や森林火災、鉱物の風化などの自然現象によって環境中に放出されるため、土壌や水中に天然由来のヒ素が含まれています。また、環境中に存在するヒ素には天然由来のほかに、火力発電、金属精錬、廃棄物の処理といった産業活動に伴って環境中に放出されたものもあります。このため、様々な食品や飲料水は、微量のヒ素を含んでいます。
(2)ヒ素は、ヒ素単体として存在する以外に、炭素や酸素など他の元素と結合し、ヒ素化合物となって環境中に存在しています。ヒ素化合物のうち、炭素を含む化合物は「有機ヒ素(化合物)」、炭素を含まない化合物は「無機ヒ素(化合物)」と呼ばれています。
 
と広報しています。

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2018年5月 9日 (水)

聖書を信じて企業を発展させた人

 静岡県浜松市にある浜松ホトニクス(通称・浜ホト)の晝馬(ひるま)00000051000_1名誉会長が、今年3月29日91歳で亡くなられたと知りました。国民の殆どは名は知らなくても、「浜ホト」の光センサー製品は自販機やATM等の紙幣選別センサー(偽札発見器)、自動車の自動ブレーキセンサー、オートエアコンのセンサー、血液検査、CTやMRIなどの測定装置等々と多く、世界シェア40%を誇る日本を代表する企業ですから、何処かでお世話になっているはずです。
 圧巻は、ノーベル賞受賞に3度も貢献している実績であり、最初は小柴昌俊氏のニュートリノ観測装置「カミオカンデ」に用いた光電子増倍管の開発。次はピーター・ヒッグス氏の半導体検出器。そしてノーベル物理学賞に輝いた東大教授の梶田隆章氏をサポートしたことで、ノーベル賞の「陰の功労者」と称えられています。話題はこれだけにとどまらず、昼馬(ひるま)氏はキリスト教徒ではないそうですが、「福音書には絶対的真理がある」と毎日聖書を読むことを日課としていたそうです。
 以下は、日経ビジネスオンライン「時代のリーダー 晝馬(ひるま)輝夫・浜松ホトニクス社長」からの引用です。       ---引用開始-----
  社員に対しても、長ったらしく抽象的な訓示などしない。新入社員への訓示はこんな具合。「いいか。俺が言いたいことは、3つある。ひとーつ。ポケットに手を入れて歩く奴はうちの社員じゃない。ふたーつ。灰皿のないところでは絶対にたばこを吸うな……」。外国では知的交流、日本では「偽悪家」の顔を巧みに使い分けているのだ。少々変わっているのは、3番目の訓示だ。「みーっつ。福音書を買え。ただし読むな。買っておけば読みたい時に読めるじゃないか。冷蔵庫のビールと同じだ。おわりっ」。晝馬は実は、無教会派キリスト教に傾倒している。これは、内村鑑三によって切り開かれたキリスト信仰の解釈。教会や儀式など表面的なものは、本来の信仰にとって何の意味もない。それより、一人一人がきちんと福音書を読み、祈りによってキリストと向き合うことが大事だと説く。浜松ホトニクスを世界シェア40%の光電子管メーカーに発展させた、晝馬のエネルギーの源泉は信仰だった。---中略----
 
元々外国が大嫌いだった晝馬が、浜松ホトニクスの海外市場開拓期にあたるこの頃、ひと月の半分は海外出張で飛び回っていたのである。出張先では、言葉の通じないレストランに行くのが苦痛で、ホテルの部屋で、チョコレートと水だけで過ごした。飛行機に乗れば、落ちるのが心配で、捕物帳を読んで気を紛らし、ウイスキーの力を借りて眠りに就いた。「絶対的なもの」への信仰は、晝馬に情緒の安定をもたらした。捕物帳は間もなく用済みとなった。それよりも、晝馬は、欧米の経営者や研究者と知的な交流をするには、語学力より、信仰がカギであることに気付いた。晝馬はこう説明する。「絶対真理は、確かに存在する。そして、そこに向かって少しでも向上していくこと――これが、信仰であり、サイエンスの意味そのものにほかならない
  とあります。

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2018年5月 5日 (土)

東回りで伝来したキリスト教のこと

 長崎と天草地方の潜伏キリスタン遺産が2018年の世界遺産に登録されるようですが、古代にはImages東回りの旧約・新約のキリスト教の伝来が幾度もあり、日本の神道・仏教・祭礼・習慣・言語などに強い影響があることも同時に理解したいものです。
  まず、主に白人に広まった西洋型キリスト教は1549年に伝来するも、密貿易や人身売買、西欧諸国の日本侵略、植民地化の手段に利用していたことが発覚し禁教。激しい弾圧が続く中で、約250年間も信仰を守った隠れキリシタンの存在が明治期に知られ、今回、潜伏キリスタン遺産として世界遺産登録の運びです。しかし、西回りとは逆に、アジア大陸を東回りで伝来した古代キリスト教もありました。
 キリシタン大名は奴隷貿易商: 大日建設の社長日記
 東回りキリスト教伝来の証拠として、京都・大秦寺の景教(キリスト教ネストリウス派)、広隆寺の「十善戒」と「十戒」、「トラの巻」と「トラー(モーセ五書)」、イスラエルの幕屋と神社、また、空海や最澄が遣唐使として留学した当時の唐ではキリスト教が盛んで、二人が興した真言宗や天台宗にはキリスト教が色濃く影響している事実もあります。それに、もっと古くは、縄文から弥生時代に移行するころ、九州や四国の瀬戸内海沿岸辺りに、「ソラ」(高地性傾斜地集落)と呼ばれた高地性集が出現しますが、高所に住む習慣はノアImage5の箱舟で大洪水から生き延びた記憶からでしょうか。
 最初の渡来は、2700年前の北イスラエル王国が崩壊した時代と重なるとされ、預言者イザヤが聖書に記した約束のを信じて、約束の地が東の島々にある(24 章15 節)、神の神殿がある山は一番高く、神聖な場所である(2 章2 節)などを頼りに東に向かったのでしょう。そして、「山岳信Image6仰」の地として、吉野金峰山、熊野三山、出羽三山、戸隠山・飯綱山(いいづなやま)、鞍馬山などが代表的ですが、いずれにも山伏や天狗伝説が残り、その天狗の姿はユダヤ人独特の風貌が伝わっています。それに、正月の餅を食べる習慣は「旧約聖書のエジプト記」にあることも注目されることです。
 いずれ、日本全体が「隠れキリスタン」の末裔と登録される日もありそうです。
出エジプト記第 12 章
13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。

久保有政 聖書講義「古代東方キリスト教と日本」1 
使徒トマスに始まった東方キリスト教
    https://youtu.be/lRC6naCNWQ4

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2018年5月 3日 (木)

久々に「牛にひかれて善光寺」

 先日、芭蕉が「月影や 四門四宗も 只一つ」と詠んだ、無宗派20180501_img_2善光に久し振りに参拝してきました。以前はボンヤリと出かけていましたので、今回は、「お朝事(おあさじ)」、「お数珠頂戴」、「びんずる尊者」(撫で仏)、「龍の戸張後方の内々陣の御三卿や守屋柱の確認」、「戒壇巡り」、「経蔵の輪蔵を回す」等々を一つひとつを体験しようと欲張って参拝して来ました。それにしても善光寺は、「不便な信州になぜ建てた」、「建てた本田善光(よしみつ)とは」、「本尊が中央でなく守屋柱が中央の理由」、「守屋柱と戒壇めぐりとは」、「諏訪の守屋山との関係は」・・・など何かと謎が多い寺で、昔から「遠くとも一度は参れ善光寺 救いたもうは弥陀の誓願」とされ、創建は642年ですから古い話しです。御本尊の絶対秘仏一光三尊 (いっこうさんぞん) 阿弥陀如来は43cmと小さくても、創建時は宗派・宗門の区別が無かったので、芭蕉も「四門・四宗も只一つ」と詠んだり、参拝の動機が不純であっても、後に信者になったという牛にひかれて善光寺参りも面白い逸話です。 
 なお、建立のキッカケは仏教が伝来した当時に遡り、仏教容認の蘇我馬子と神道護持派で廃仏派の物部守屋は権力闘争を展開し丁未(ていび)の乱(587年)に発展。敗れた物部守屋は殺されたことで、物部氏の末裔が物部守屋の鎮魂のため、大黒柱(守屋柱)の下に守屋の首を埋めて建立したとされます。「戒壇めぐり」は、この守屋柱やご本尊を参拝者が一周することで結界を張っているとされ、真っ暗な回廊を進み、ご本尊真下の鍵前に触れることで再び明かるさを取り戻す体験は、参拝の動Image機はどうでも(この世)の有り難さを表現していると感じさせました。
 因みに、日本最古の寺は蘇我馬子が建てた奈良の飛鳥寺か、聖徳太子による官立の難波の四天王寺かとされ、秘仏の「一光三尊阿弥陀如来」像は、最初は四天王寺で祀ったのに、廃仏論の物部守屋から難波の堀へ捨てられ、後に信濃国の本田善光が拾い上げ、当初は飯田市の元善光寺でお祀りしてましたが、更に、現在の地に遷座したことで善光(よしみつ)の名から善光寺と名付けたそうです。善光寺の本堂建立の642年当時は、聖徳太子の死後で蘇我氏の横暴な振る舞いから天皇を困らせていたとされ、それを見かねた中大兄皇子と中臣鎌足が中心になり、儀式の最中に蘇我入鹿を暗殺した大化の改新(645年)というクーデターもありました。Moriya_image

長野・善光寺と牛の由来!「牛に引かれて善光寺まいり」の意味とは?

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