« 2018年3月 | トップページ | 2018年5月 »

2018年4月

2018年4月23日 (月)

青森の「南部」は富士の南部から?

 近所に博学な青森県出身者がおられ、よく青森のお話しを聞く機会がNanbu_imageありますので、行ってもないのに行ったような気分になっております。面白かったのは、青森県は津軽と南部で大きく区分されていますが、この南部富士山の南部と関連していた話しです。
 さて、弘前城の城郭を利用した弘前公園では、数千本の桜が咲き乱れる季節で弘前さくらまつりも100周年と注目されています。青森と言えば桜祭りの他に、リンゴ・にんにく・ねぶた祭・津軽海峡・よされよされ節・恐山・大間のマグロ・八甲田山・・・等々を思い浮かべますが、津軽と南部の対立も有名です。津軽南部は奥羽山脈で分断され、異なる歴史・気候・文化・方言を持つ土地柄で、かつ両藩は幾度も対立し、1821年には南部藩士による弘前藩主の暗殺計画「相馬大作事件」、明治元年には野辺地戦争も勃発し遺恨は深く、今も知事選などは激戦と聞きます。Image69
 まず津軽藩は、津軽為信(1550~1607)という武将が1590年に津軽を統一し、豊臣秀吉から津軽3郡(4万5千石)を拝領、1594年に大浦城から堀越城に移転。更に跡継ぎが1611年弘前城を居城として幕末まで続いています。この間、関ヶ原の合戦に参戦して2千石の加増。また津軽信枚は徳川家康の養女・満天姫を正室に迎えて、大阪冬の陣にも参戦するなど徳川家と密接な関係を築きますが、戊申戦争では早々に新政府側に寝返っています。片や、南部藩は平安後期の前九年の役 (1051~1063) まで遡り、陸奥の豪族で蝦夷の長・安倍頼良が納税を怠るようになり、朝廷は源頼義・義家親子に安倍氏討伐を命じたことで長い戦が開始。源頼義親子には苦戦が続き、万策尽きたとき、清原一族の援軍を受けると1ヶ月で安倍氏を滅亡させました。Gengi_image1
 そして、源頼義の子で八幡太郎源義家の弟の新羅三郎・義光の子孫で、甲斐国加賀美庄(南アルプス市辺り)を治めた加賀美遠光の三男で、今の山梨県南部町に居を構えていた南部三郎光行 (1165~1236) が、1191年に平良ヶ崎(南部町)に城を構えたのが南部の祖だそうです。つまり、山梨県南部町と青森県南部町は、同じ南部氏を祖ということになりますが、南部とは甲斐の南部からなのか、富士山の南部からなのか・・・・また、南部氏はなぜ甲斐から海を渡って八戸に行く必要があったのか・・・・
 なお、青森出身の方も、ご先祖は源義家の曽孫・義俊の後裔で、青森で里見新田を完成させた大新田太郎里見の末裔とのことです。そして、府中市のけやき並木近くには源義家の像がありますが、「前九年の役」の帰途、大國魂神社に戦勝報告した際に欅を奉納したことから建立されています。1_315


■青森県の歴史(津軽と南部がひとつになれたのはなぜか)   https://youtu.be/Jg_nCImG37U  

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2018年4月21日 (土)

「八十里 腰抜け武士の越す峠」

 福島・只見町出身者と新潟・魚沼市出身者が机を並べた職場があって、幕末Hokuetu_image2北越戦争のことを熱く語っていました。耳を傾けていますと、県は別でも魚沼と只見は隣接で六十里越(実際は六里)や八十里越(実際は八里)で結ばれ、昔から同じ文化圏として話題も共通していました。そして話が北越や会津戦争に及ぶと、魚沼の小出島(こいでじま)には会津藩の陣屋があって激戦の地となり、今も小出島陣屋跡(魚沼市諏訪町1-222)をはじめ、会津藩兵の遺骸を埋葬した正円寺(小出島952)、会津藩烈士之碑がある諏訪神社(四日町527)、会津藩菩提寺の萬行寺(中島1066) などからも、会津とのつながりは深いそうです。
 さて150年前の今頃、慶応4年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が無血開城し、5月15日(7月4日)には上野・彰義隊を一日で蹴散らすと、薩長軍の次のターゲットはいよいよ会津方面に向いていました。当時、会津盆地に入るには五本の主要街道「二本松街道・白河街道・下野街道・米沢街道・越後街道」があって、薩長軍は、主に、白河口・日光口・越後口の三方から会津に迫っています。
 後に発刊された会津戦記等では、白虎隊の悲劇や二本松少年隊の奮戦、家老・西郷頼母家一族21人の自刃悲劇などからか、白河・二本松など、母成峠~猪苗代~若松の攻防戦の記述が多いようです。しかし、実際の激戦の地は北越戦争だったと聞きています。慶応4年(1868)7月25月、「武装中立」を目指していた長岡藩家老・河井継之助は、新政府軍の岩村精一郎と小千谷で談判するも決裂し開戦。ガトリング砲2門やエンフィールド銃などで二か月も奮戦するも長岡城は落城。しかし、河井継之助は約700名を率いて奪還作戦(八丁沖の戦い)を挙行し見事に成功するも、継之助は左膝を流れ弾で打ち抜かれ負傷し戦線を離脱。「八十里 腰抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠みつつ会津に逃る途中で破傷風が悪化し、只見町塩沢の医師・矢沢宗益宅で息を引き取ったそうです。
 只見出身の方は宗益医師の親戚筋だそうで、魚沼出身の方は、河井継之助のことは地元では殆ど無名だったが、司馬遼太郎が小説「」で有名にした。末裔は都内に在住し、かつては迷惑かけたと帰省を遠慮していましたが、最近では米百俵祭りなどの行事に参列していると語っていました。それでも戊申戦争当時のことを、昨日の如く語る様子からも明治政府等にわだかまりは深いと見ました。Image1

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2018年4月17日 (火)

熊本城の石垣修復に「穴太衆」

 熊本では平成28年4月14日と16日の二度の激震で、熊本城をはじめ各地で甚大な被害が発生しましたが、熊本城の復旧には0005_151_2太衆の末裔も加わって順調のようです。さて、旧・陸軍は工兵という技術集団が重用され、「工兵の歌」では「挺身深く潜入し、野に臥すことも幾そ度、今ぞ臨むや目的地、地軸も砕けむ大爆破、退路遮断の任なりて・・・・」とあるように、戦況を大きく左右したそうです。
 戦国時代も、このような技術集団が重宝され、
石垣等の野面積(のづらづみ)を得意とした石積集団の穴太衆(あのうしゅう)、
鉱山掘削やトンネル技術集団の山衆(かなやましゅう)や百足衆(むかでしゅう)
鉄砲製造や火薬の原料の硝石を準備する鉄砲傭兵集団の雑賀衆(さいかしゅう)
などの優秀な技術集団には大金を支払っても、多く雇い城郭造営や、戦では敵の城の破壊工作に利用した武将が戦に勝利したようです。
 事実、秀吉も蜂須賀小六の率いる川並衆は、普段は水運や治水などの仕事をしていた人たちを戦で重用し、墨俣一夜城や小田原の石垣山城の造営に当らせて、あっという間に築城して、敵方を脅かせています。また、信長も「安土城」の築城に穴太衆を雇い、戦では敵の城の破壊工作を担当させたと言われています。
 そして、甲斐の武田信玄も金山衆・百足衆を抱えて、金銀採掘による潤沢な軍資金で武田軍団を支えていたし、武田家滅亡後に家康が一早く千人同心や金山奉行・大久保長安などを保護したのは、実際は、多摩川上流の黒川渓谷沿いに多く住む「金山衆」による金山採掘やトンネル掘削の技術と知識が欲しかったからとされます。Support_bridge
 ところで、熊本城が熊本地震で大きな被害を受けましたが、この石垣修復に、穴太衆の末裔・粟田建設(滋賀県大津市)が携わっているそうです。「穴太衆」は、大古から古墳の造営の他に寺院や城郭などの石工技術を持った集団で、元々はユダヤの末裔とされ、シルクロードを東へ東へと移動する途中では、万里の長城や古墳の建設にも関係したとされます。なお、旧日本軍で工兵と呼ばれた技術集団は、陸上自衛隊では施設科部隊と呼ばれ、災害派遣では架橋や道路復旧に、PKO活動でも、現地の復旧活動等に活躍する様子が報じられますが、穴太衆や川並衆、雑賀衆に負けない仕事をすると言われています。そして、〇○衆と呼ばれた技術集団は、歴史の流れと共に日本各地に広まり、建築・土木全般で現代建築と融合して「物づくり日本」を支えているはずです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年4月13日 (金)

乳飲み子の 匂いも愛し 春うらら

 最近、初孫が誕生した友人が「」をテーマにした俳句を多く送ってくれました。
 ペットや孫など、無条件で可愛がっている対象を詠っても、多くは駄作になると断りを入れられましたが、手放しの慶びの様子だけは間違いなく伝わってきますので、紹介したいと思います。
・乳飲み子を 眺めあやして 春盛りMago_image1
・初孫や 卯月の候に 産着抱く
・春4月 産着の孫の 初笑顔
・産声も 動画で届く 春4月
・ユキヤナギ よりも真白き 産着かな
・乳飲み子の 匂いも愛し 青葉風
・松風や 嬰の髪嗅ぐ 顔寄せて
・干支は戊戌  卯月の候に 産着抱く
・初孫を 抱きし息子に 春来たり
・福耳の 孫に託すは 春の夢
・老眼で 孫の手占う 春日向
・マスカケで 何を掴むか 嬰の春

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年4月 5日 (木)

注目の癒し分娩室“COCOON”

 先日、「4月1日生まれはハンディが大きいか」と記事にしましたところ、偶然にもA9ea22友人の息子さんお嫁さんが、4月1日の予定日の数日後にCOCOON(コクーン)分娩室で出産したと知りました。
 COCOON(コクーン)とは「繭(まゆ)」の意味のようですが、分娩室をマユのような快適な空間にして、緊張しがちな妊婦さんを落ち着かせて出産を感動的に演出しているのだそうです。30年も前のアメリカ映画に『コクーン2/遥かなる地球』では、老人ホーCocoon_2ムの老い先短いお年寄りたちが、宇宙人のプールに入ると若者顔負けの元気を得て青春を取り戻すという話しでした。きっと、コクーン分娩室も、この映画もヒントに映像や音楽で快適にして、出産をドラマチックなものにしているのでしょう。
 また、女性の身体は月に影響されることが多く、妊娠も出産もある程度予測されるとされ、満月や新月の日に陣痛が始まり、且つ、満潮も重なるとより確率が高くなるそうですが、不思議なものです。
 まずはおめでとう御座います。
■横浜のあおばウィメンズホスピタルの紹介
 https://youtu.be/NDzac4g98hE..

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年4月 1日 (日)

4月1日生まれはハンディが大きいか

 4月の新年度は、多くの人達が入学・新学期・進級・入社・異動・転勤・転居などで新生活に切り替わる季節であると共に、テレビ番組の変更、外食等食料品の値上げ、医療・介護サービスの変更なども相次ぐようです。
 ところで、ここ数日中に出産予定の方々やご家族も大いに気にされているはずです。つまり、4月1日生まれと4月2日生まれでは、たった1日の違いで学年がひとつ変わるというハンディ?を一生引きずるからです。その理由は「学校教育法第十七条で、「保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」とあり、「満6歳になった翌日以降で最初に迎える4月1日に入学」と規定されているからです。それには、年齢を計算するには「年齢計算ニ関スル法律」(明治35年12月2日法律第50号)があって、年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算スとあり、生まれた日から年をとり始めることを理解する必要があります。
 このことから、元プロ野球選手の桑田真澄氏(1968年4月1日生まれ)は、PL学園高校時代に1年の夏から甲子園に出場したことで、出場中最も若い選手として紹介されていました。この話しからは、早生まれは一概に体力や能力にハンディがあるとは断言出来ないところもあります。なお、4月1日出産は病院に出生証明書の日付を4月2日に変更の要望をしても、虚偽証明書発行の理由で断られることになります。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2018年3月 | トップページ | 2018年5月 »