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2018年3月16日 (金)

橋本左内の「稚心を去る」

 乏しい書棚に、西郷隆盛「南洲翁遺訓」、朱子学の入門書「近視録」、Sanai_image橋本左内の「啓発録」などが並んでいます。若い頃、幕末の志士らに思いを馳せたことを回顧するも、全てに「少年老いやすく学成り難し」の心境です。特に、橋本左内が16歳でまとめた「啓発録」は、小生の成人に頂いたもので「稚心を去れ」の教えを昨日の如く記憶しています。福井藩藩主松平慶永(よしなが)(春嶽)の側用人・橋本左内は、西郷隆盛が同輩で唯一尊敬した人物とされ、一橋慶喜の将軍擁立の裏工作に協力した事で、安政の大獄で26歳の若さで刑場の露と消えています。幕臣・水野忠徳は「左内を殺した事をもって、徳川を滅ぼすに足る」と語り、西郷も「左内を殺すとは、幕府は血迷っている」と述べています。
 徳川幕府は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約を締結し、横浜や神戸・函館などを開港して交易の約束をしますが、その5日後に、松平春嶽や徳川斉昭らは江戸城に押しかけ登城し、大老井伊直弼らに条約調印と将軍継嗣を糾弾した行動が安政の大獄の始まりでした。これにはペリー来航の序曲があり、当時、徳川将軍の家定(1824~1858)は虚弱体質で、後継将軍に老中・阿部正弘をはじめ、島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭らは一橋慶喜(徳川慶喜)を推挙(一橋派)し、対して、譜代大名や井伊直弼、徳川家定の生母・本寿院らは紀伊藩の徳川家茂(いえもち)を擁立(南紀派)した結果、血が濃い家茂(いえもち)が13歳で1859年14代将軍に就き、1862年皇妹・和宮との婚儀が上げるも1866年に21歳で死亡しています。
 なお「安政の大獄」は、徳川御三家などの親戚筋と一家来にすぎない井伊家との関係悪化とされ、それを制御出来ないほど落ちぶれた幕府の権威の失墜の表れでもありました。この「稚心を去る」は、大人になり切れない政治、憲法、防衛、18歳成人問題など、今の日本人に問いかけているようです。そして3月18日の「西郷どん」第11話は、次期将軍問題や篤姫を家定の御台所にする工作になるはずです。
 国立市で発見された龍馬の手紙: 大日建設の社長日記

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13、明治150年」カテゴリの記事

コメント

越前福井藩については橋本左内をはじめ、四賢侯の一人に名を連ねる松平春嶽などを輩出しながら、薩長土肥に比べると目立たない存在であるが、横井小楠や三岡八郎(後の由利公正)の名も挙げられ、特に三岡などはその財政手腕を坂本龍馬がベタ惚れし、数年前に国立市内で見つかった書簡草稿もさることながら、「三岡を一日も早く上洛させよ。さもなくば新政府の発足が一日遅れる」との旨の書簡も現存していると言われているところで、そろそろこうした幕末の雄藩は必ずと言って良いほど藩内で西洋の文物をも取り入れた教育に力を入れており、長州の松下村塾は言うに及ばず、福井藩も明道館を設立して外国人講師が理科の教鞭を執っており、翻って現代を見るに、成人年齢の18歳引き下げが閣議決定され、やれ成人の日が大学受験期と重なりただでさえ「はれのひ」事件で打撃を被った晴れ着業界が青ざめてるだの、10年旅券が18歳から取れることにより「てるみくらぶ」倒産で打撃を被った旅行業界が若者の海外旅行促進に期待しているだのと言われているが、そんなことより御社的に懸念しなければならないのは、不動産取引や住宅ローン契約などを果たして18歳の若造が親の同意なしに単独でできるのか?それだけの教育が果たしてなされてきたのか?であり、取り敢えずこの4/1には、旭通りの竹村園芸さんのあった所に八王子ラーメンびんびん亭さんが開店予定であることにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年3月16日 (金) 13時00分

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