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2018年3月11日 (日)

鹿島(水戸)と鹿児島は関係が深い?

 鹿島に「児」を加えて鹿児島と呼びますが、どんな関係があったのでしょうか。Bakumatu_8
 歴史学者の田中英道先生は、「神武天皇が正にこの鹿島から船出して、鹿児島に向かった船団によって、九州から西国を統一することが出来たことを、神武天皇元年に、宮柱を建てた、という神話に結びついたと考えられるのである」と語っています。先日、拙ブログで「鹿島立ち」を話題にしましたが、防人が九州へ旅立つ決意だけでなく、太古の昔、神々が鹿島から鹿児島に向ったことも意味するはずです。さてドラマ「西郷どん」では、西郷はペリー来航翌年の安政元年(1854)3月6日に、江戸に着くと庭方役(密偵)を命じられ、これにより激動期の表舞台に登場することなりました。西郷の初仕事は、鹿島辺りの常陸国を領地とする水戸藩主・徳川斉昭と後の将軍・徳川慶喜に出会う場面でした。しかし実録では、島津斉彬の茶道方(茶坊主)・樺山三円(資之)の案内で、徳川斉昭の側近・尊皇思想(水戸学)の学者・藤田東湖と会うことのはずです。
 樺山三円も茶坊主として機密を扱う立場は、西郷と似た任務があったようです。
 そして西郷は、東湖の紹介で水戸藩家老・戸田忠敬(蓬軒)、弟の安島帯刀らと親交を深00204203200_め、幕府の機密を知ることができたものの、それが災いして安政の大獄で失脚することになります。水戸藩は、中国のから亡命した儒学者・朱舜水に影響された光圀公以来、尊王思想を掲げ、事実、幕末には、桜田門外の変、坂下門外の変、水戸天狗党の乱などを起こすなど、尊王派の中心地であったことも押さえたいことです。
 そして、3月11日放送の「西郷どん」第10話に、越前福井藩の橋本佐内が登場ですが、西郷は後年、東湖と左内を讃えて「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、共に最も尊敬した人である」と語っています。安政の大地震で圧死した東湖や戸田忠敬、安政の大獄で刑死した左内や切腹した安島帯刀の志しを継ぎ、命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬと縦横無尽の活躍をしています。
 なお、鹿児島には、神武天皇が東征に出航したとされる神武天皇御出航碑もありますので、きっと、西郷をはじめ薩摩藩士も討幕に際して意識したはずですし、また「水薩同盟」がナゼ崩壊したのかも注目したいものです。
 

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14、明治150年」カテゴリの記事

コメント

薩摩藩は当初は佐幕派であり、その象徴が篤姫の将軍家輿入れであり、また禁門の変では後に宿敵となる会津藩と組み、後に同盟を結ぶ長州藩相手に戦っており、その後倒幕派に転じたものの、薩長同盟の時点でもまだ藩内は倒幕派、佐幕派に二分されており、藩論をまとめきれていない状況であったところで、そろそろそこで西郷は藩内の佐幕派を抑えるために一計を案じ、幕府側の下手人として寺田屋で襲撃された坂本龍馬を藩で庇護する(この時行われたのが日本最初の新婚旅行と言われているが、小松帯刀が先との説もある)ことで薩摩藩としては幕府に敵対するとの意思表示を行っており、また坂本龍馬も寺田屋から逃走する時に故意に薩長同盟について書かれた書面を寺田屋に残し、捕縛に来た幕府の役人に持ち帰らせることで、薩長両藩が幕府に敵対するとの意思を明確にしたと言われていることにも言及頂くと共に、今日は東日本大震災発生から7年に当たり、地震発生の14:46には黙祷を捧げたいことにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年3月11日 (日) 12時50分

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