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2018年3月30日 (金)

奈良橋に「奈良橋」は無かった

 東大和市奈良橋の奈良橋川空堀川に挟まれた位置Image6に社有物件が数棟有りますので、近くの橋の名が気になりました。つまり、奈良橋川に架かる奈良が地名になったとばかり思っていたのです。近くだけですが橋名を調べたところ、八幡橋、日月橋、元村山橋、熊野前橋などはありましたが、奈良は見つかりませんでした。
  さて、東京の西方・奥多摩の山間部から流れ出た多摩川は、何度も氾濫を繰り返して土砂を運び出して武蔵野台地という扇状地を形成しました。ところが狭山丘陵は多摩川が削り残したように台地にポツンと島状に残り、そして二つの丘陵の間に谷が形成され、その谷をせき止めて狭山湖(山口貯水池)・多摩湖(村山貯水池)が1927年(昭和2年)に完成し都民の水ガメになりました。 面白いのは、二つの湖に流れ込む河川は無く、多摩川の水を羽村取水堰で取り入れ、導水管で貯水池に導き、更に、東村山浄水場、境浄水場へと導かれImage2_2、都民の上水道になっています。
 なお、奈良橋の地名は都内で唯一の室町時代の神社「豊鹿島神社」に「文政元年(1466)武州多東郡上奈良橋郷」の記録があるそうですが村誕生の年代は不明です。きっと武蔵国の誰かが、万葉集に『あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり』とあるように、奈良のような繁栄を期待したのでしょう。そして、天正19年(1591)徳川家康が江戸に移ると、家臣に領地を与え村々の地頭として配属していますが、このとき村切りという方法で、奈良橋、蔵敷、芋窪、高木、後ヶ谷、清水などと強制分断されたものの、明治期からは大和村の中心地として発展しています。ただ、住民の意向を無視した村切りは後の世まで影響し、今も市長や市議会議員などの選出に尾を引いているそうです。Image8

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コメント

地名「奈良橋」の由来は不明であるが、その奈良橋村が周辺の村と合併する時に「村同士の大きな和が必要」ということで「大和村」となり、それが市になるに当たって「東京の大和」ということで「東大和市」となったのであって、決して「奈良橋→奈良→大和国→その東にあるから東大和」ではないところで、そろそろ奈良といえば、「いにしへの奈良の都の八重桜」と百人一首にも歌われているが、国立の桜も今日の強風で桜吹雪となり、果たして来月7日、8日の「さくらフェスティバル」まで持つかが疑問であるが、今月末まで市内各地に置いてあるピアノが弾き放題、そして夜の桜ライトアップは8日までであることにも言及頂きたいかと…。

投稿: | 2018年3月30日 (金) 18時59分

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