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2017年7月18日 (火)

「鹿児島警部に茨城巡査」の理由

 最近、著名な旧・水戸藩士をご先祖に持つ方と知り合いましたが、幕末当0020160515175142時の国難で本当に優秀だった水戸藩士の殆どを失い、明治以降も冷遇され続けた歴史を知りました。水戸藩は徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)の一つとして、唯一、参勤交代を行わないで、江戸常駐を義務付けられた別格扱いの藩として、徳川幕府の万が一の護りに備えたそうです。
 また藩校「弘道館」は、第9代藩主徳川斉昭公により1841年に創設されましたが、武芸一般は当然とし、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問を採用した総合大学にようなもので、水戸学の藤田東湖も創立に貢献し、会沢正志斎や青山拙斎など当代一級の教授陣を揃え、幕末には、橋本左内や西郷隆盛、吉田松陰ら多くの人材が留学しています。
 しかし、幕末期には1853年のペリー来航、1854年に日米和親条約、1858年7月29日に日米修好通商条約が締結され、1858年9月14日には、孝明天皇が戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を幕府を無視して水戸藩に直接発されたことが発端となり、
安政の大獄 (1858~1859)、
桜田門外の変(1860)、
坂下門外の変(1862)、
天狗党の乱(1864)、
会津戦争(1868、明治元年)
などの国難で優秀な人材400人以上が失われ、明治政府の要職に就いた人は皆無とも言われています。
 さて、主に幕末以降に地域蔑視に用いた言葉に、「鹿児島警部に茨城巡査」、「薩摩の大将、肥後の中将」、「白河以北一山百文」などがあります。今回は鹿児島警部に茨城巡査に触れますが、薩摩藩の西郷隆盛は腹心の川路利良に新時代に相応しい警察制度の導入を命じ、1871年(明治4)東京府で3000名の邏卒を採用し、更に明治7年(1874)1月、東京警視庁が設置され邏卒は巡査と改称されました。その長官は、邏卒制度導入以来の川路利良(としよし)が就任。また、階級を大警視、権大警視、少警視、権少警視、権大警部、中警部、権中警部、少警部、権少警部、警00029921580x436部補、警部試補、一等・二等・三等・四等巡査という構成で今とは随分違っていたようです。
  警察制度導入当時は、殆ど士族から採用されましたが、士族の採用には首都治安維持以外に、武士の失業対策の意味もありました。この時、江戸当時の与力や同心も採用されたのですが、それでは不足し鹿児島から2000人、他藩の士族1000人と合わせて3000人が採用されています。まず困ったのが階級の割り当てで、特に鹿児島出身者の多くを警部以上で採用し、他藩の多くは巡査として採用したようです。このとき東京に比較的近い旧水戸藩士も多く馳せ参じたのですが、殆どが巡査採用だったそうです。
 つまり鹿児島警部に茨城巡査は、最初からエリート扱いの鹿児島人と出世できない茨城県人を対比したように捉えられますが、それは警察制度発足当初のことで、今はこのような差別は無いと聞きます。明治期は、警察だけでなく政府や陸海軍の要職をほぼ薩長土肥出身者が独占した中でも、賊軍とされた幕府や会津藩からも有能な人材は登用されたのに、水戸藩からは思い浮かぶ方がいません。
 尚、桜田門外の変で襲撃した18人のうち、ただ一人の生き残りの海後嵯磯之介(1826-1903)は、明治期に警視庁巡査を拝命しています。
■第3週6話安政の大獄と桜田門外の変【CGS 倉山満】
    https://youtu.be/I_iefNcB2kk
  歴史ミステリー 桜田門外の変の謎 安政7年3月3日(1860年3月24日)
   https://youtu.be/Vb21JYmj6p0
 

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コメント

県名の正しい読みは「いばらき」と末尾が濁らないにもかかわらずこれほど誤読される県名も珍しいが(類例にアボ「カ」ドがある)、現在放映中の朝ドラの舞台にもなっており、その警察云々の話と関係するかは不明であるものの、茨城といえば今やすっかりその警察の敵である「ヤンキー」で有名になってしまっているところで、そろそろ元々この地域は水戸徳川家以前は佐竹氏の所領であったものの、関ヶ原の戦いの折に東軍に付くとも西軍に付くとも煮え切らない態度を取った上に、石田三成と仲が良くまた上杉氏と内通していたことからこんな大名を江戸近くに置いておくのは危ないと、戦後に秋田へ減転封となり、この時佐竹氏が腹いせに領内の美人を根こそぎ秋田へ連れていったことから、今でも秋田には美人が多く、茨城には◯◯(カタカナ2文字の差別用語につき非表示)多しという都市伝説が生まれたことにも言及する前に、差別と言えば今日その某女性党首は一体どのような釈明をするのかについても言及頂きたいかと…。

投稿: | 2017年7月18日 (火) 12時44分

大日建設(株)杉山
佐竹藩は関ヶ原の戦いで中途半端な態度を見せたことから、祖先伝来の地・水戸(常陸)から秋田に転封されており、水戸と秋田は同じ姓を持つ方々が多いそうです。
 きっと、徳川への恨みは永年消えなかったはずで、幕末には奥羽列藩同盟から一早く離脱し新政府軍側についています。功を上げて、水戸・常陸の国(日立)に国替えされることも夢見たことでしょう。松尾芭蕉の奥の細道の目的は、水戸藩を通じて、佐竹藩と仙台藩の動静監視・情報収集目的だったという説もあります。
 秋田美人のことは知りませんでした。

投稿: 大日建設(株)杉山 | 2017年7月18日 (火) 16時57分

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