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2016年12月19日 (月)

「日本は戦勝国だった」その七

 クラウゼヴィッツは、「戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによ311v5neh9hl_9って決まる」と語っています。現在では、アジア・アフリカの国々は、白人から奴隷として搾取されていたのに殆どが独立しています。多くの有色人種は、日本が一国で白人社会に立ち向かう勇気を見て、自分達も出来ると決意したとされます。
 戦前、「白人からの植民地解放」を訴え続け、白人から憎まれていた大川周明は、民間人として唯一人A級戦犯として裁かれていますが、戦後は目立った動きもなく昭和32年静かに永眠しています。確かに、日本は植民地解放の道半ばで白旗を上げましたが、そんなことは形式的なことです。実際は、戦中も含め戦後のアジア諸国が徐々に独立する様子を眺めつつ、「考えた通りになった」と一人ほくそ笑んでいたと思います。
 また、
マッカーサーは「東京裁判」に関して、トルーマン大統領と会談したときに「東京裁判は誤りだった」と認め、昭和26年の軍事外交合同委員会で「日本の戦争は自衛戦争だった」と重大な証言をしています。それなのに、日本の保守的な政治家や評論家までも、「日本は侵略国家だった」とする東京裁判を受け入れたままでいることは極めて残念なことです。大川周明は、放送の最終日に北より来たれば北条、東より来たれば東條」などと洒落ながらも、開戦を決意した東條英機首相を高く評価しています。
 いずれ、
大川周明同様に、名誉回復されることでしょう。
 なお、西尾寛二先生の解説のほうが、文章より分かり易いと思います。
■西尾寛二 GHQ焚書図書開封 第22回(米国東亜侵略史)
 第22回:大川周明『米英東亜侵略史』を読む
 ―ロンドン軍縮協定と日本の曲がり角―

https://youtu.be/Nvw7Ro1W5eg  


第五日(昭和十六年十二月十八日放送)
 日本が屈服した日
 ダニエル海軍計画と八八艦隊計画
 東亜においては遮二無二日本の地位を覆えさんと焦り、国内においては没義道なる日本人排斥を強行したアメリカは、さらに強大なる海軍の建造に着手したのであります。米日における大海軍論の偉人なる先覚者は『歴史における海上権の影響』という名高い本を書いたマハン海軍大佐であり、これを実行に移したのがセオドア・ルーズヴェルトであります。
 ルーズヴェルトは1898年3月、すなわち彼が海軍長官だった頃、すでにこの書を読んだ感激をマハン大佐に書き送って、「貴下の著書は、予の心中に漠然として存在していた思想に、明確なる姿を与えてくれた。予は崇高なる目的のために貴著を研究した」と述べております。そして後年、彼が大統領となった時には「世界第一等の海軍建設を議会に要求することは、大統領たる予の荘厳なる責任である」と豪語しております。
 彼は強大なる海軍なくしては、アメリカはただ中国の門戸開放主義を有効に維持し得ざるのみならず、モンロー主義さえも守り得ないと力説し、敵海軍主力の撃滅を第一目的とする大戦艦隊建造の必要を強調したのであります。今日のアメリカ海軍政策は、実にルーズヴェルトの精神を継承し、これを実行しつつあるものであります。従って彼の誕生日、10月27日が「海軍日」として記念されているのは決して偶然でないのであります。
 このようにしてアメリカ海軍は、ルーズヴェルトの指導の下に強大なる基礎を置かれたのでありますが、1914年8月14日に至り、パナマ運河の開通を見たのであります。この運河の開通によって、以前は大西洋岸ハンプトン・ローズ軍港より加州のメーア軍港に到るために、南米大陸を迂回して実に1万3千浬の航海を必要としたのが、今や5千浬強の距離に短縮され従ってアメリカ海軍は、その全力を挙げて大西・太平両洋のいずれにおいても作戦し得ることとなり、あたかもその艦隊を倍加したと同一の効果を見るに至りました。加えて1916年には、ダニエル海軍計画またはウィルソン海軍法として知られる偉大なる海軍拡張計画が着々実行され、次いで1919年には太平洋艦隊の編制を見るに至ったので、太平洋におけるアメリカの勢力は、俄然として大を加えたのであります。
 さて、名高きダニエル海軍計画は、戦艦10隻、巡洋艦6隻を基幹とし、120十隻に近い駆逐艦及び潜水艦を建造せんとするもので、翌1917年より直ちにその実現に着手しました。この計画はいたくイギリスを剌激しましたが、いっそうの圧力をもって我が国を脅威したことは申すまでもありません。とりわけこの計画が米国議会に提出された時、責任ある朝野の政治家が、議会の内外において試みた該案支持の説明は、異□同音に東アジア問題における日米の衝突を力説したので、我が国はこの挑戦に対して必然備うるところ無きを得なかったのであります。そのためにダニエル海軍計画が米国議会を通過した1917年、日本はいわゆる84艦隊計画を立て、翌年にはさらに86艦隊計画、その翌々年には遂に88艦隊計画を立てざるを得なかったのであります。
 この間の消息は、イギリスの海軍通パイウオーターがその書『海軍と国家』の中に述べている通りでありますー「日本は一年以上にわたって、海上の覇権を握らんとする断乎たる目的をもって行われたるアメリカ海軍の大規模の拡張を、不安の念を高めつつ眺めていた。日本の利害は太平洋に限られているが、アメリカがその力を集注し来れるは、実にその太平洋に外ならなかった。1919年8月、アメリカ海軍の最強艦隊が、新たに編制された太平洋艦隊としてパナマ運河を通って来た。同時に太平洋艦隊根拠地の計画が発表された。フィリピン、グアム、サモアにおいて、大規模の海軍施設が計画された。ハワイの真珠港は、太平洋上のジブラルタルたらしめられんとした。そして日本は、アメリカのこのような海軍行動をもって、自国を目的としたものと感ぜざるを得なかった。こうして1920年、日本は名高き88艦隊計画を立ててこれに対抗した」。
 さて、このようにして惹起された猛烈なる製艦競争において、我が国の造船工業は、実にその全力を挙げて奮闘したのであります。そしてこれを船台・船渠・港湾の設備の上から見て、並びに造船技術の上から見て、我が国は優にアメリカを凌駕しており、金力だけはアメリカに劣るけれど、その他の点では明白に我が国が勝利の地歩を占めていました。アメリカはこの競争の容易ならぬ性質をようやく判然と看取し得たのであります。
 加えてアメリカの海軍計画は、ひとり日本のみならず同時にイギリスの海軍拡張をも促さずば止まなかったのであります。アメリカいかに富めりとは言え、日英両国を相手にとっての競争は無謀と申さねばなりませぬ。その上、世界大戦によるアメリカの好景気も、いつまで続くはずのものでもありません。一朝経済的不況に陥った時、莫大な経費を海軍に奪われることは大なる苦痛となります。

 ワシントン会議での[一石二鳥」
 こうしてアメリカは、自ら招いた苦境から脱出すべく、ここに軍備制限を議する国際会議を招集し、これによって日英両国の海軍を掣肘すると同時に、東亜における日本の勢力を失墜させ、もって東洋進出の路を平坦ならしめることを考えたのであります。1921~1922年のワシントン会議はこうして開かれ、アメリカはこの会議によって見事に一石二鳥をせしめたのであります。
 ワシントン会議は、ロンドン・タイムズ主筆スティードが道破した通り、その本質においてまさしく「日米両国の政治的決闘」であったのであります。そしてこの決闘においてアメリカは、まず第一に、その最も好まざりし日英同盟を破棄させて、日本を国際的に孤立させることに成功しました。第二に日本海軍の主力艦を自国並びにイギリスのそれに対し、6割に制限し去ることに成功しました。我が全権は、英米海軍主力艦に対する7割のそれをもって日本国防の最小限度なりとし、極カアメリカ案に反対したにかかわらず、英米両国の共同作戦によって、遂に太平洋西部の防備制限を交換条件として、国防の「最小限度」以下の比率を承諾したのみならず、加藤全権は次のような驚くべき声明までもしたのであります。「日本は過去においてこれ無かりしごとく将来においても、その力において合衆国もしくは英国とその程度を同じうする一般的海軍設備を保有することを要求するの意思を有せず」。この声明はすこぶる英米人の喝采を博したそうであります。
 日本を孤立せしめ、その海軍を劣勢ならしめたアメリカは、さらに四ヵ国条約の締結によって、西太平洋における自国領土の安全を図りました。この条約はもともと日英米三国の間に結ばれるべく、その成立と同時に日英同盟を太平洋の藻屑とする魂胆でありましたが、フランスの面目を立てるためにこれを誘い入れて四カ国条約としたものであります。オランダのごときは西太平洋においてフランスよりも遥かに重大なる利害関係を有しているにかかわらずこれを加入させぬところを見ても、この条約の不真面目さを窺い知ることが出来ます。条約の要旨はその第一条に尽くされております。
 「締約国は、太平洋方面におけるその島嶼たる属地及び領地に関する各自の権利を、互いに尊重すべきことを約す。もし締約国のいずれかの間に、太平洋問題に起因しかつ前記の権利に関する争議を生じ、外交手段によって満足なる解決を得ること能わず、かつその間に現存する円満なる協調に影響を及ぼすところある場合には、右締約国は他の締約国の共同会商を求め、当該事件全部を考量調整の為、その議に附すべし」。そして、この条約の第4条において、「1911年7月13日、ロンドンにおいて締結せられたる大ブリテン国及び日本国間の条約は、これと同時に終了するものとす」と明記して日英同盟に最後の引導を渡しております。
 日本はワシントン会議において、山東問題に関してはベルサイユ条約によって得たる権利をさえも犠牲にして、ほとんど無条件にこれを支那に還付しました。石井・ランシング協定の廃棄にも同意しました。そして支那に関する九ヵ国条約が、米・露・英・仏・伊・日・蘭・葡・支の九ヵ国間に、実にアメリカが欲する通りの内容をもって成立しました。この条約は「支那の全領土にわたり一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するために努力する」こと、また「友好国の臣民または人民の権利を減殺すべき特殊権利、または特権を獲得するために支那の情勢を利用せざる」ことを定め、さらに、締約国にして「本条約の規定の適用問題に関係し、かつ右適用に関し討議をなすことを適当なりと認むる事態発生したる時は、何時にても右目的のため、関係締約国問に十分かつ隔意なき交渉をなすべきこと」を取りきめたものであり、アメリカはこの条約によって、少なくとも形式的には、我が国の支那とくに満蒙における特殊権益を剥奪し去ったのであります。
 こうしてワシントン会議は、太平洋における日本の力を劣勢ならしめることにおいて、並びに東亜における日本の行動を掣肘拘束することにおいて、アメリカをしてその対東洋外交史上未曾有の成功を収めさせたのであります。米国が東洋に向かって試みた幾度かの猪突的進出は、その都度失敗に終わりましたが、ワシントン会議においては、かつて欲して得ざりしことを、一応は成し遂げたのであります。当時アメリカ人が上下を挙げて喜んだのも当然であります。
 

 ワシントン会議以後の劣勢
 しかもアメリカはこれをもっても満足しなかったのであります。アメリカはワシントン会議によって日本の戦闘艦を制限し得たのでありますが、それだけではまだ枕を高くして眠ることができない。アメリカと日本のように、きわめて遠隔な距離を隔てて相対している間柄では、大きい巡洋艦が時として戦闘艦以上の効力を発揮することがあります。こうしてアメリカが主導者となって、今度は主力艦以外の軍艦制限の目的をもって招集されたのが、ジュネーブ会議及びロンドン会議であります。
 そしてこの二つの会議においても、日本はワシントン会議におけると同じく、アメリカの前に屈服したのであります。ただしアメリカに屈服したのは日本だけではありません。実にイギリスまでがアメリカの前に頭を下げ、アメリカよりも劣勢なる海軍をもって甘んずることになったのであります。これは世界史における非常の出来事と申さねばなりません。大ブリテンは海洋を支配すと高嘯して、世界第一の海軍を国家の神聖なる誇りとしてきたイギリスが、今やその王座をアメリカに譲ったのであります。ここで我らは心静かにアメリカの国際的行動を観察してみたいと存じます。
 自ら国際連盟を首唱しながら、その成るに及んでこれに加わることをしない。不戦条約を締結して、戦争を国策遂行の道具に用いないということを列強に約束させておきながら、東洋に対する攻撃的作戦を目的とする世界第一の海軍を保有せんとする。大西洋においては英米海軍の十対十比率が、何ら平和を破ることないと称しながら、太平洋においては日米海軍の七対十比率さえなおかつ平和を脅威すると力説する。ラテン・アメリカに対しては門戸閉鎖主義を固執しながら、東アジアに対しては門戸開放主義を強要する。例えば往年邦入漁業者が、メキシコのマグダレナ湾頭に土地を租借しようとした時、これをもってアメリカのモンロー主義に反するものとする決議案が、アメリカ上院を通過しております。それにもかかわらず東亜においては、日本の占め来れる地位は、アメリカがメキシコまたはニカラグアにおいて占める勢力の十分の一にも及ばざるにかかわらず、門戸開放主義の名においてこれをも否定し去らんとするのであります。総じて、これ無反省にして、しかも飽くなき利己主義より来る矛盾撞着の行動であります。
 アメリカの乱暴狼籍このようであるにもかかわらず、世界のいかなる一国もアメリカに向かって堂々とその無理無法を糾弾せんとする者がなかったのであります。我が国もロンドン会議において、それだけに補助艦比率の十対十を主張して何の憚るところなかりしのみならず、ワシントン会議以後の情勢変化、及び不戦条約の精神を楯として、主力艦六対十の比率変更をさえ要求し得たにかかわらず、当初から七対十の比率をもって甘んじ、しかもその主張さえアメリカのために拒否されて、いっそうの劣勢をもって甘んじたのであります。すべてこれらの会議は、筒単に軍縮会議と呼ばれておりますが、決して単純なる海軍会議ではありません。三十年にわたる執拗極まりなきアメリカの東亜政策全体を顧みることによって、これらの会議の真実の意味を、初めて正しく理解し得るのであります。
 

 敵国に誉めそやされた「ロンドン条約調印」
 我らは意気揚々としてロンドン会議を引き上げたアメリカ代表スティムソンが、この年五月十三日、上院外交委員会において下のような説明を試み、口を極めて日本代表及び日本政府を賞揚したことを今日といえども忘れることが出来ません。
 「我ら合衆国代表の眼目とせるところは、我が海軍が日本海軍を凌駕すべき製艦計画を完成するまで八年間、日本をして現勢力のままに在らしめる事であった。六インチ砲巡洋艦に関しては、我らは我が保有量を七万五千トンより十四万三千トンに拡張するまで、日本は現状を維持すべきことを要求した。我が国は、この条約によって六インチ砲巡洋艦を倍加し得ることになったにもかかわらず、日本は現在保有する九万八千トンよりわずかに二千トンを拡張し得るに過ぎない。
 日本は本国において海軍拡張論者の猛烈なる運動あり、海軍当局は国民の支持後援を得ていた。それゆえに予は、日本代表はロンドン会議において非常に困難なる仕事を成し遂げたと断言する。我らは、日本が勇敢にもその敵手が自国を凌駕するまでその手を縛るような条約を承認した事に対し、その代表及び政府に最大の敬意を払いつつ、会議から引き上げて来た。我らは故意に潜水艦を日本と同等にした。これは潜水艦の総トン数を縮小すれば、それだけ我が国を有利に導くからである。そして日本は一万六千トンの縮小に同意した」。
 ロンドン会議における日本代表及び日本政府は、アメリカ代表から「敵が自分よりも優勢なる艦隊を建造するまで、自分の手を縛られるような条約に調印した」と言って、その「勇敢」を誉めそやされたのであります。
 その日本代表は、ロンドンから帰ると、日本国民に向かって会議の成功を語り、首相は議会において、国防の安全を保証していたのであります。痛憤に堪えなかった私は、我らの機関誌であった月刊『日本』のこの年の五月号に「ロンドン会議の意義」と題する一文を発表し、その末尾を下のように結んでおります。
 「ロンドン会議は、もしそれが単独に海軍協定のためのものであるならば多少の譲歩はこれを忍び難しとせぬ。ただそれ四半世紀にわたる米国東洋政策遂行の歴史を観る時、そしてその歴史の行程としてこの会議を観る時、すでにワシントンにおいて譲り、いままたロンドンにおいて譲るならば、やがていっそう大なる譲歩を強要せらるべきこと、火を睹るよりも瞭かである。
 繰り返して述べてきたように、米国の志すところは、いかなる手段をもってしても太平洋の覇権を握り、絶対的に優越した地歩を東亜に確立するに在る。そのために日本の海軍を劣勢ならしめ、無力ならしめ、そうした後に支那満蒙より日本を駆逐せんとするのである。日本がもし適当なる時期において、このような野心の遂げられるべくもなきことを米国に反省させるのでなければ、米国の我が国に対する傍若無人は年と共に激甚を加え来り、ついに我が国をして米国の属国となり果てるか、そうでなければ国運を賭してこれと戦わねばならぬ羽目に陥らしむるであろう。ロンドン会議は日本の覚悟を知らしめる絶好の機会であったにもかかわらず、ついにこれを逸し去った」。

 第六日(昭和十六年十二月十九日放送)
 敵、東より来たれば東条
 国民から湧き上がってきた大なる憂い
 ロンドン会議は、日本現代史に対して深刻無限の意義を有しております。第一次世界戦以来、日本の上下を支配してきた思想は、英米を選手とする自由主義・資本主義と、ロシアを選手とする唯物主義・共産主義であります。深く思いを国史に潜め、感激の泉を荘厳なる国体に汲み、真箇に日本的に考え、日本的に行わんとする人々は、たとえあったにしてもその数は少なく、その力は弱かったのであります。
 ところがロンドン会議は、それだけにこれら少数の人々のみならず、多数の国民の魂に強烈なる日本的自覚を呼び起こす機縁となったのであります。そしてロンドン会議の責任者・浜口首相は、遂に国民義憤の犠牲となったのであります。日本はワシントン会議以来、アメリカとの政治的決闘において、常に負け続けてきたのであります。いまやロンドン会議に勝ち誇れるアメリカを見て、この上負けては遂に息の根が止められるぞという大なる憂いが、国民の魂の底から湧き上がってきたのであります。それは我らの先輩が黒船の脅威によって、幕府も忘れ各自の藩も忘れて尊皇攘夷のために奮い起ったと同じことで、米国国務長官スティムソンは、百年以前にペリーが日本に対して務めた同じ役割を務めたのであります。
 ロンドン会議に至るまで、日本はアメリカの東洋進出に対して受け身であり、アメリカの対日政策に対して常に譲歩してきたのであります。そのアメリカの政策が余りに傍若無人であったために、アメリカの政治家のうちにさえ、日本の憤激を買って戦争を誘発せぬかと心配した人が少なくなかったほどであります。
 例えば、加州における排日問題の時でも、大統領ルーズヴェルトは、日本人はこのような侮辱を甘受する国民でないと信じていたので、フィリピン陸軍司令官ウッドに対し、何時日本軍の攻撃を受けても戦い得るよう準備せよという命令を発し、しかも万一日米戦争になれば、フィリピンは日本のものとなるであろうと甚だ憂鬱であったのであります。そして心配に堪えかね、フィリピン派遣という名目で陸軍長官タフトを東京に寄越したのでありますが、タフトが来てみると、国民こそ激しく憤慨しておりましたが、政府は毛頭そのようなことを考えておりません。そこでタフトは東京から「日本政府は戦争回避のために最も苦心を払いつつあり」と打電して、ルーズヴェルトの愁眉を開かせております。その後十数年を経て、移民問題が再び日本国民を憤激させたときも、余りに日本の体面を傷つけては戦争になるかもしれんと心配した米国政治家が少なくなく、当時の駐日米国大使モリスのごときもその一人であります。ただしこのときも日本政府は、干戈に訴えても国家の面目を保とうなどとは夢にも考えていなかったのであります。
 最後に1934年、埴原大使をして、無法に日本人排斥法を通すならば「重大なる結果」を生ずるだろうと抗議させましたが、かえって上院議員ロッジのために「日本はアメリカを脅迫するつもりか」と開き直られ、もともと覚悟を決めての抗議でなかったのでありますから、結局いかなる結果をも生ぜずに済みました。
 ところがロンドン会議以後、事情は全く一変したのであります。政府は依然として英米に気兼ねしながら、国際的歩みを徐々に進めんとしたにかかわらず、国民は日本国家の根本動向を目指して闊歩し始めたのであります。政府はロンドン会議において低く頭を下げたにかかわらず、国民は昂く頭をもたげて、アメリカ並びに全世界の前に、堂々と進軍をはじめたのであります。この日本の進軍は、実に満州事変においてその第一歩を踏み出したのであります。
 

 満州事変
 1928年、父張作霖の後を継いで満州の支配者となった張学良は、南京政府及び多年にわたるアメリカの好意を背景として、東北地帯における政治的・経済的勢力の奪回を開始したので、満州における日本の権益に対する支那側の攻撃は年と共に激化し、排日の空気は全満に漲らんとするに至りました。もともと満州における日本の権益は、ポーツマス条約に基づくものであります。もし当時日本が起ってロシアの野心を挫かなかったならば、満州・朝鮮は必ずロシアの領土となったであろうし、支那本部もやがて欧米列強の俎板の上で料理されてしまったことと存じます。日露戦争における日本の勝利は、ただロシアの東洋侵略の歩みを阻止したのみならず、白人世界征服の歩みに、最初の打撃を加えた点において、深甚なる世界史的意義を有しております。このとき以来日本は、朝鮮・満州・支那を含む東亜全般の治安と保全とに対する重大なる責任を荷い、かつその重任を見事に果たしてきたのであります。
 その間にいかにアメリカが日本の意図を理解せず、日本の理想を認識せず、間断なく乱暴狼籍を働きかけてきたかは、三日にわたって述べた通りであります。このアメリカの後援を頼み、南京政府の排日政策に呼応した満州政権は、遂に暴力をもって日本に挑戦してきたのであります。それは取りも直さず、1931年9月18日の柳条溝事件であります。そして時の政府が断じてこれを欲しなかったにもかかわらず、日本全国に澎湃として漲りはじめた国民の燃える精神が、遂に満州事変をしてその行くべきところに行き着かしめ、大日本と異体同心なる満州国の荘厳なる建設を見るに至ったのであります。
 我らは満州事変が、こうした事変の発生を最も憎みかつ恐れていた幣原氏が、日本の外交を指導していた時代に起こったことを考えて、歴史の皮肉を想わざるを得ぬものであります。しかしながら満州事変は、決して日本にとって不利なる時期に起こったのではありません。運命は明らかに日本に向かって微笑していたのであります。すなわちこの事変の起こった1931年の夏の末には、世界を挙げて大不景気の影響を深刻に感じなかったことはなく、とりわけイギリスとアメリカは、ヨーロッパ及び本国において、経済的混乱に陥っていたのであります。
 すなわちこの年は信用機関の没落、イギリスの金本位制離脱、フーヴァー大統領のモラトリアムなど、欧米の政府及び国民を途方に暮れさせた重大問題の頻発した年であります。さればこそスティムソンは、その著『極東の危機』の中で「もし誰かが、外国の干渉を受けずに済むと考えて、満州事変を計画したとすれば、無上の好機会を掴んだものと言わねばならん」と申しております。満州事変はそれほど国際的に好都合のときに起こったので、日本の為には甚だ幸運であったと存じます。
 ただしアメリカは、もちろん手をこまねいて見ているわけはありません。国務長官スティムソンは事変勃発の四日後、すなわち9月22日に駐米日本大使を経ていわゆる「熱烈なる覚書」を日本政府に交付しております。その中で彼は「過ぐる四目間、満州において展開せられつつある事態には、夥しき数の国々の道徳・法律及び政治が関係している」と、居丈高になっております。その後に至り満州事変に対して執った国際連盟の行動は、一つとしてスティムソンと相談しなかったものがなく、またその指図に由らぬものがなかったのであります。
 

 国際連盟は旧秩序維持の機関
 当初スティムソンは、幣原外相に大なる期待をかけていました。国際連盟、四ヵ国条約、九ヵ国条約、不戦条約、総じてこれらの世界現状維持のための約束に欣然参加し来れる日本の外務省は、このたびとてもアメリカの意図を無視した行動を取るまいと考えていたのであります。これは決して私の想像でなく、スティムソン自身が同年9月23日、すなわち「熱烈なる覚書」を日本に叩きつけた翌日の日記に「予の問題は、アメリカの眼が光っているぞということを日本に知らせること、及び正しい立場にある幣原を助けて彼の手によって事件の処理を行わしめ、これをいかなる国家主義煽動者の手にも委ねてはならぬということである」と書いております。
 スティムソンは、これも彼自身の言葉によれば、日本の外務大臣が日本に燃え上がった国家主義の炎々たる焔を消し止め、過去及び現在の征服を中止して、日本をして九カ国条約及び不戦条約に再び忠実ならしむべきことを希望し、かつその可能を信じていたのであります。そして幣原外相も恐らくこの希望に添いたかったに相違ありませんが、事変の発展はスティムソンの希望を完全に打ち砕き、彼は矢継ぎ早に「不愉快なるニュース」のみを受け取らねばならなかったのであります。
そしてこの年の12月に民政党内閣か倒れ、翌1932年1月、日本車が錦州を占領するに及んで、スティムソンは遂に「談合によって満州問題を解決せんとした予らの企図は失敗に終わった」と告白しております。そうして今度は「満州の平和撹乱者に対して、全世界の道徳的不同意を正式に発表する手段を取り、もし可能ならば日本の改心を要求する圧力となるべき制裁を加える」と決心したのであります。
彼はこの目的のために国際連盟を利用せんとしたのであります。国際連盟は、スティムソンの属する共和党とは反対の政党、すなわち民主党の大統領ウィルソンを生みの親とし、しかも共和党のために勘当を受けたる子供であります。それが今や共和党の国務長官が、自ら勘当した子供を日本制裁の為に働かせようとして、一切の鞭撻と激励とを与えたのであります。
 彼は1932年春、カリフォルニアとハワイとの間において、全米国艦隊の大演習を行わしめ、演習終了後もこれを太平洋に止めて日本を威嚇しました。そして一方絶えずロンドンとジュネーヴに圧力を加え、この年3月12日には、連盟総会をして2月18日に独立を宣言した満州国に対し、不承認の決議をなさしめました。それからこの年11月末には、国際連盟はいわゆるリットン報告に基づいて、日本に対して満州を支那に返還せよという宣告を下したのであります。その後この宣告を巡って長い劇的な討論が行われましたが、遂に我が松岡代表が「ヨーロッパやアメリカのある人々は、いま日本を十字架にかけんとしている。それでも日本人の心臓は、恫喝や不当なる抑制の前には鉄石である」と叫んで、日本の決意を世界万国の前に声明したのは、英米に対する宣戦詔勅を渙発した12月8日と、日も月も同じ十年前の12月8日であります。
そして翌1933年2月14日、リットン報告書が遂に連盟総会によって採択されるに及んで、松岡代表は即刻会場を退出し、日本はたちどころに国際連盟を脱退したのであります。国際連盟は言うまでもなく世界旧秩序維持の機関であります。それゆえに我々は、復興亜細亜を本願とすべき日本が、世界の現状すなわちアングロ・サクソンの世界制覇を永久ならしめんとするこのような機構に加わることに、当初より大なる憤りを感じていたのであります。それなのにスティムソンの必死の反日政策が、日本をして国際連盟より脱退せしめる直接の機縁となったことは、これまた歴史の皮肉と申さねばなりません。
 

 来るべき日が遂に来た
 さてスティムソンは、1932年12月下旬、次期大統領に選ばれたフランクリン・ルーズヴェルトから、外交政策について相談したいからという招待を受け、紐育ハイド・パークのルーズヴェルト邸で、長時間の会談を行いましたが、その後数日を経てルーズヴェルトは、米国の対外政策において両者の意見は完全に一致したことを発表しております。したがって現大統領の東亜政策または対日政策が、スティムソンのそれと同一なるべきことは、すでにこのときより明白であったのであります。
 スティムソン政策の拠って立つところはあくまでも九ヵ国条約及び不戦条約を尊重し、これに違反する行動はすべて不法なる侵略主義と認め、徹底してこれを弾劾するというものであります。したがってこの政策を完全に継承するルーズヴェルトは、今回の支那事変に際しても、当初より日本の行動を不法と断定し、支那の抗戦能力強化を一貫不動の方針として、あらゆる援助を蒋介石に与えてきたのであります。
 このことはルーズヴェルトが、1937年10月5日、シカゴにおいて試みたる最も煽動的な演説の中に、極めて露骨に言明されております。「条約を蹂躙し、人類の本能を無視し、今日のごとき国際的無政府状態を現出せしめ、我らをして孤立や中立をもってしてはこれより脱出し得ざるに至らしめし者に反対する為に、アメリカはあらゆる努力をなさねばならぬ」。
 そしてまさしくこの言明の通り、日米通商条約を廃棄し、軍需資材の対日輸出を禁止し、資金凍結令を発布して、一歩一歩日本の対支作戦継続を不可能ならしめんとすると同時に、蒋政権の抗戦能力を強化する為には、一切の可能なる精神的並びに物質的援助を借しまなかったのであります。日本は、もしアメリカが東亜における新秩序を認めさえすれば、東亜におけるアメリカの権益をできるだけ尊重し、かつアメリカのいわゆる門戸開放主義も、この新秩序と両立し得る範囲内においては十分にこれを許容する意図をもっていたのであります。ところがアメリカは、東亜新秩序建設を目的とする我が国の軍事行動をもって、あくまでも九ヵ国条約・不戦条約に違反する侵略行為とし、頑としてその見解を改めざるのみならず、車亜新秩序はやがて世界新秩序を意味するがゆえに、このような秩序―アングロ・サクソン世界制覇を覆すに至るべき秩序の実現を、その根底において拒否するのであります。
 しかもこれらは決して現大統領の新しき政策にあらず、実にアメリカ伝統の政策であります。すなわちシュワードによって首唱され、マハンによって理論的根拠を与えられ、大ルーズヴェルトによって実行に移された米国東亜侵略の必然の進行であります。この伝統政策あるがゆえに、日米両国の衝突は遂に避くべからざるものであり、今や来るべき日が遂に来たのであります。
 弘安4年、蒙古の大群が多々良浜辺に攻め寄せたとき、日本国民は北条時宗の号令の下、たちどころにこれを撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲を決意し、緒戦において海戦史上振古未曾有の勝利を得ました。敵、北より来たれば北条、東より来たれば東条、天意か偶然か、めでたきまわり合わせと存じます。熟々考え来れば、ロンドン会議以後の日本は、目に見えぬ何者かに導かれて往くべきところにぐんぐん引っ張られて往くのであります。この偉大なる力、部分部分を見れば小さい利害の衝突、醜い権力の争奪、些々たる意地の張り合いによって目も当てられぬ紛糾を繰り返している日本を、全体として見れば、いつの間にやら国家の根本動向に向かって進ませていくこの偉大なる力は、私の魂に深き敬虔の念を呼び起こします。私はこの偉大なる力を畏れ敬いまするがゆえに、聖戦必勝を信じて疑わぬものであります

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