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2015年12月10日 (木)

立川市が巻き返しを図るまで

 盛り場を持つ立川市に隣接する国立市は、戦後、風俗街の広がりを拒Image4否し静かな住宅街や教育環境を守るべきと文教地区に指定するなど、光と影のように対比して語られることがありますが、最近は、どちらが光か影か判別できないと見ています。
 立川米軍基地は1977年(昭和52年)に日本に返還され、跡地は国営昭和記念公園、立川広域防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地東部方面航空隊などに転用されています。この立川基地に隣接していた「タチヒゴルフ」の跡地には、12月10日「ららぽーと立川」がオープンします。実に発展著しい立川の街として注目され、隣町の国立市から見ると羨ましい限りです。Image1
  しかし、この立川の街には、大きな声では語れない悲惨な歴史を少し古い人は知っています。
  米軍に占領された形の暗黒時代の立川は、GHQ占領が始まった昭和20年から立川基地が日本に返還される昭和52年ころまで続きます。私が立川を初めて訪問したのは昭和43年ですが、まだまだ戦後色を引きずった臭いと景色が広がっていました。
 街には、米兵にブラさがる日本人女性が多く見られ、まだ10代の多感な年齢には、敗戦国・日本の屈辱を事実として感じた光景でした。当時はベトナム戦争の真っ只中で、立川市はベトナム戦争に従事する兵隊の休暇先として人気があったのです。米兵にはローテーションで戦う制度があって、定期的に休暇が与えられるのですが、休暇先として、タイ、韓国、フィリピン、南ベトナムなどがあったのです。一番人気は日本の沖縄、立川、横田、横須賀などだったと言われ、これが日本女性の売春、米兵による買春が蔓延していた背景と聞きました。
 昨今、慰安婦問題から微妙な点が多々ありますが、それが現実なのです。
 そして、これを逆手に金儲けした日本人、朝鮮人も多くいたのも事実です。
 多少余裕のある市民は、米兵やパンパン、オンリー相手のアパートや旅館、飲食店の経営に乗り出してひと儲けしていたのです。立川市で名を馳せた朝鮮人の一人として、立川ロータリークラブ初代会長でもある中野喜介氏「別名・川辺応棟」が有名です。これからも、GHQの占領政策が立川の裏社会まで深く浸透していたことを伺わせます。きっと、GHQやヤクザ社会とつながり、裏社会で力を発揮していたのでしょう。
  立川市の中野隆右氏は著書「立川」(昭和20年から30年代)の中で、
 「中野喜介氏は別名・川辺応棟、本姓は、孫。名は應棟。出身地は忠息清南道。父の名は、孫海成、母の名は雀達山。つまりは生粋の朝鮮籍の孫應であり、立川にやってきたのは成人してのちのことで、喜介氏が妻(朝鮮籍)とともに養子として中野家の養子となったのは、敗戦から4年後の昭和24年1月のことだ。立川パラダイスが開業した旧陸軍K01獣医資材廠の土地は、砂川の大地主であった中野家の地所であった。中野家と川辺応棟(中野喜介)氏とは、以前より親しく往来があり、のちに川辺氏は中野家と養子縁組を結び、喜介を名乗ることになる。」と暴露しています。中野喜介氏は、昭和28年に設立された立川商工会議所の設立発起人代表・初代会頭であり、また、立川ロータリークラブ初代会長でもあります。
 詳しくは
 中野隆右著の「戦後立川・中野喜介の軌跡
   http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-09
 を読んでご確認下さい。
 私は立川市の図書館で借りて呼んでいます。いずれにしても、立川の発展が世間に注目されるまでには、もがきにもがき苦しんだ長い時代があったことが見えてきます。きっと、苦しんだ分の発展があるのでしょう。跡地には、大学や病院などの建設が続くようです。ただ、道路交通網が伴っていないのが残念なことです。今日の読売新聞に「再開発、商業施設の出店で注目(立川編)」とあり、近年、暗い過去を払拭しつつ反撃に転じる立川」を思ったのでした。

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03、 国立市界隈のこと」カテゴリの記事

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