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2015年9月 7日 (月)

旧・庄内藩士発刊の南洲翁遺訓

 代々徳川家に仕えた譜代の庄内藩は、作家・藤沢周平の出身地山形県鶴岡市が本拠地ですが、「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」「武士の一分」などでは「海Ikun_00坂藩」と表現されています。幕末期には江戸市中取締りの要職にありました。
 さて、9月5日放送の「田勢康弘の週刊ニュース」に出演した慶應義塾大学の竹中平蔵教授が、西郷南洲翁遺訓の四ケ条を掲げて、政治家の在り方を諭していました。この遺訓集は、旧・庄内藩士が明治22年に執筆したものですが、縁ある方からだいぶ前に頂いた記憶があり、書棚から30分もかけて探しあてました。平成9年9月9日発行で60頁の小冊子です。
 それでは何故、旧庄内藩士達の発刊なのでしょうか。
 まず、明治22年明治憲法発布に伴い西郷隆盛が恩赦となると、庄内藩では遺訓集を作成して、中老だった菅実秀(すげさねひで)以下6人の庄内藩士がこの遺訓集を携えて全国を行脚して、西郷南洲の威光を広めたそうです。
 では何故、遺訓集が庄内から出版されたのか・・・・・
 それは、明治の革命前夜、幕府打倒の急先鋒・薩摩藩の西郷は、ゲリラ約500人を指揮し薩摩藩邸を根城として、江戸の街で悪事の数々を働いて幕府を挑発しますが、その拠点を1867年、慶応3年12月25日庄内藩配下の新徴組が焼打ちし、戊申戦争の発端となりました。幕末期には、庄内藩は江戸市中取締り会津藩は京都守護職として、庄内藩は新徴組、会津藩は新撰組を配下に置き、風雲迫る江戸幕府を藩の存亡をかけて懸命に支えていたのです。しかし、幕府側に武運なく敗走を続け、会津落城後も庄内藩は単独で抵抗を続けたものの、時勢は既に官軍側にあり降伏します。よって、庄内藩の戦後処理は会津藩以上に酷いものになると心配したのですが、西郷の意見で寛大な処置に終わります。
 これに感謝した庄内藩主・酒井忠篤公は家老や家臣70数名を伴い、鹿児島の西郷を訪れて親しく教えを受け、その後も幾たびも庄内藩士が西郷を訪ね、西南の役では共に戦っています。このような深い交わりから、生前の言葉や教訓を記録した手記を遺訓集として作成したと伝えられています。果たして、昨今の政治家や偉いと世間から評価される方々に、これを励行している人はいるでしょうか。
 因みに、鶴岡と鹿児島とは、この「徳の交わり」が始まりで、昭和44年(1969年)11月7日に兄弟都市として深く結びついているそうです。

西郷南洲翁遺訓 四ケ条Image_3

  国民の上に立つ者(政治・行政の責任者)は、いつも自分の心をつつしみ品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものである。ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。

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