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2015年5月10日 (日)

国立の地名は、いったんは「国保」に

 駅名の「国立」は、大正15年に中央線の国分寺駅と立川駅の間に、新駅を設置する際に国分寺の「」と立川の「」を一文字づつ取って、堤康次郎が「国立」と名付けたことは良く知られています。0000212
 更に、街全体の地名が「谷保」から「国立」に改められたのは、戦後の昭和26年のことですが、この地名変更は簡単ではなかったようです。
 当時の住民の言い分は、
 ▼谷保の人達は「国立」はルビを振らないと「こくりつ」と読まれるからまずい。
 ▼「谷保」では「保谷」と間違えられて郵便物が届くことがある。
 ▼「谷保」は若い世代が、野暮に通じて耳障りがよくないと反対した。
 などと、「谷保」の古い住民と「国立」の新住民間で感情的対立が見られました。
 それでも妥協案として、国立の「国」、谷保の「保」をとって、「国保(くにほ)」と村議会で全会一致でいったんは決定したのですが、インテリ住民の多い国立で行ったアンケート調査の結果、99%が「国立」を希望して、ひっくり返したというのです。
 この、町名変更問題をキッカケにして、「国立」の住民は、以後も各種の住民運動で主導権を握りリードして行くことになったことを「国立市史」で知りました。
 その後は、「谷保」の住民の大人の対応に頭が下がる思いですと、当時の議長は言い残しています。
 ※以下は 「国立市史(下巻)」220頁から
 ------引用開始-------
  いったんは「国保」にきまる
 大正時代の箱根土地株式会社による国立地区の開発以来、「谷保」と「国立」との間には微妙な感情的対立が、いつも底流としてあった。谷保の人びとにとって、国立の新住民はあとから入ってきたにもかかわらず、何かと口うるさく、従来のしきたりにもあまり馴染もうとしない。そのうえ、町名を「国立」としたのでは、それこそ「庇を賛して母屋を取られる」にひとしいというのである。しかも、村長は谷保地区から選ばれた地元の有力者であった。町名問題は、なかなかすんなりとはゆかなかったのである。
 そうした状況のなかで、一つの妥協案が本村側から出された。
 国立の国と谷保の保をとって、「国保」(くにほ)としたらどうかというのである。
 この妥協案は、さっそく村議会に提出され、全員協議会で決定された。
 しかし、国立地区選出の議員が、この決定を地元住民に伝えると猛反対が起こった。反対運動を組織したのは国立会という住民組織である。この国立会は、戦後にできた新しい組織で、町名問題をきっかけに以後、各種の住民運動をリードしていくことになる。
そこで、この組織について簡単な説明を加えておくことにしよう。
  「国立会」
 昭和二十二年四月一日、連合国軍総司令部のマツカーサーは、戦前から存在していた各地の町内会・部落会・隣組の解体を命じた。これらは戦時下にできた上意下達の国民統制の組織であり、地元ボスの政治支配に利用されがちであった。したがって、その存在は地域の民主化の妨げになるとみたのである。そこで国立地区では戦前からの隣組を廃止し、それに代わって消防活動という一つの旧的をもつ警防後援会という組織をつくった。この組織には、国立地区の全住民が加入しており、戦前からの地域有力者層がその運営に当たっていた。------引用終わり-------

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