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2015年2月24日 (火)

国立(くにたち)の発展と関東大震災

 多摩地区の開発・発展は、江戸の街や東京都心部の大火や大震災・大空襲などの災いが少なからず連Image動していると言われています。もちろん重要な背景として、江戸(東京)に比較的近いこと、玉川上水や街道の整備、鉄道の敷設などの利便性が高い地域という諸条件も上げられます。
 古くは1657年(明暦3年)の「振袖火事」「明暦の大火」とも呼ばれる大火では、駒込・吉祥寺の門前町が焼失して、今の中央線の吉祥寺辺りに多くが移住した例や、神田蓮雀町の人達が三鷹蓮雀町に移住して開発した例などがあります。
  特に、都心に被害が集中した 1923(大正12)年9月1日の関東大震災では、都心部から近郊の土地に多くの重要施設や住宅が転居して新たな街が形成されました。
  我が町「国立(くにたち)」の発展も、関東大震災で被災した神田一ツ橋にあった国立(こくりつ)大学の「一橋大学」の前身である「東京商科大学」の校舎が倒壊・焼失して、「国立(くにたち)」に引っ越したことがキッカケでしょう。
 国立(クニタチ)に国立(コクリツ)があると実にややこやしいものです・・・・・・
 この移転のキッカケは、箱根土地(現・プリンスホテル)の堤康次郎です。
 きっと堤康次郎は、江戸の大火、振袖火事で巨万の富を得た紀伊国屋文左衛門や河村瑞賢らと同様に、関東大震災をチャンスと見たのでしょう。
 実に手回し良く、
 1926年(大正15年)には中央本線国分寺駅と立川駅の中間に駅を誘致して、両駅から1字ずつ取って「国立(くにたち)」と名付けています。そして、同時期に開発した国立駅前分譲地を「国立大学町」として売り出したのですが、これが、今につながる「国立(くにたち)ブランド」の始まりと思います。大学の「国立(コクリツ)ブランド」ではありません。
 と言っても、我が社が「国立ブランド」にあやかっているとは、昭和50年に開業以来一度も思ったことはありませんが・・・・・
 
  因みに、甲武鉄道として開通した明治22年当時は、
 内藤新宿と立川の27.2kmの間の駅は、中野・境・国分寺の3駅だけでしたが、その後、荻窪・大久保・吉祥寺・東中野・高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪・国立・三鷹・西国分寺の順序で駅が作られて行きます。(※順序の正確性は保証できません)

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