明治150年

2018年12月24日 (月)

「日本造船の父」沼津の上田寅吉

 今から164年の嘉永7年(1854年)11月4日に安政の大地震が起こり、Hedago_image1この地震による津波でロシアのプチャーチン提督が率いる軍艦ディアナ号(長さ52m、2千、488名の乗組員)は戸田村大中島(沼津市)沖で沈没しています。困った同提督は、帰国用の代艦建造を江戸幕府に請願し、幕府はこれに応えて韮山代官の江川英龍を建造取締に任命しています。
 この機会は日本にとって、洋式外洋船の建造技術を学ぶチャンス、正に「渡りに船」とばかりに協力しています。このとき、造船世話掛に選ばれたのは戸田村大中島の上田寅吉(1823~1890)ほか7人の船大工棟梁でした。1855(安政元年)12月24日、外国船の図面もない上、言葉も通じない中で造船に着手しています。そして、上田寅吉らは、ロシアの乗組員からの助言を受けながらも、翌年3月には、日本初の本格的洋式帆船を完成させたところ、プチャーチン提督は職人や住民に感謝して、船の名前を「戸田(ヘダ)号(100トン)」と命名しています。
 これには余談があって、一隻目を完成後、船大工棟梁の上田寅吉と鈴木七助は長崎海軍伝習所に出張を命ぜられたため、残った5人が中心となって、一挙に約6カ月で6隻を完成させています。また、上田寅吉や赤松則良は「日本造船の父」と呼ばれていますが、後の日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)の日本海海戦においてバルチック艦隊を破った日本艦隊の戦艦四隻(清輝・天城・海門・天竜)を建造して、日本の勝利に貢献しています。これこそ正に、師への恩返し「出藍の誉れ」、逆にロシアにとっては、「軒を貸して母屋を取られた」想いだったはずです。
 この造船に限らず、日本は短期間の内に列強に伍する力を身に付けています。
 因みに、幕末から明治期において、あらゆる分野で先駆的役割を果たして、日本の「○○の父」と讃えられる方々が多く誕生しています。
・「造船の父」は上田寅吉、赤松則良、肥田浜五郎
・「開国の父」は阿部正弘・堀田正睦・井伊直弼
・「議会政治の父」(憲政の神様) は尾崎行雄(藩閥政治反対運動)
           ※尾崎咢堂記念館(相模原市緑区又野691)
・「軍事教練の父」は幕末の伊豆韮山代官 江川英龍
・「政党政治の父」は伊藤博文(長州ファイブの一人)
・「近代郵便の父」は前島密(長州ファイブの一人)
・「鉄道の父」は 井上勝(長州ファイブの一人)
・「造幣の父」は遠藤謹助(長州ファイブの一人)
・「日本の工学の父」は山尾庸三(長州ファイブの一人)
・「警察の父」は川路利良(初代・警視総監)
・「帝国海軍の父」は山本権兵衛 或いは西郷従道
・「帝国陸軍の父」は大村益次郎或いは山縣有朋
・「教育の父・体育の父・柔道の父」は嘉納治五郎
・「日本外交の父」は陸奥宗光(紀州藩士)
・「日本法曹界の父」は佐賀藩士の江藤新平
・「騎兵の父」は秋山好古(秋山兄弟の兄)
・「日本電気通信の父」は寺島宗則(薩摩藩)
・「日本の電気の父」藤岡市助(周防国岩国)
・「日本近代化学の父」は川本幸民(摂津国三田藩(兵庫県三田市))
・「近代医学の父」は北里柴三郎 (熊本県阿蘇郡小国町北里)
・「民生委員の父」は林市蔵 (第15代大阪府知事)
・「日本ロケットの父」は糸川英夫
・「日本のウイスキーの父」は竹鶴政孝
・「フェライトの父」加藤与五郎(愛知県刈谷市野田町)
・「日本ビールの父」は長岡の中川清兵衛(サッポロビールを創始者)
・「近代登山の父」は英国人宣教師、ウォルター・ウェストン
・「日本サッカーの父」はデットマール・クラマー
・「日本近代建築の父」はチェコ出身のアントニン・レーモンド
・「近代水道の父」は英国陸軍の工兵少将ヘンリー・スペンサー・パーマー
・「日本スキーの父」は オーストリアの軍人レルヒ少佐(スキー術の普及)
・「日本ワインの父」は川上善兵衛(新潟県上越市)
・「日本飛行機の父」は二宮忠八(愛媛県八幡浜市矢野町)
・「国産自動車の父」は豊田 喜一郎(静岡県敷知郡吉津村山口)
・「栄養学の父」は佐伯矩(ただす)(愛媛県新居郡氷見村出身)
・「点字の父」は石川倉次(東京盲唖学校教授)静岡県浜松市出身
・「点字楽譜の父」は佐藤国蔵(山形県遊佐町出身)
http://dainichi-k.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-8929.html

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2018年12月22日 (土)

12月22日は「日本初の内閣成立」

 今日12月22日は、127年前の1885年(明治18年)に、それまでのMeigi_hanbatu太政官制度が廃止され、参議の伊藤博文(1841~1909) が第1代内閣総理大臣に任命し「第1次伊藤内閣」が発足した日です。その顔ぶれは、長州4、薩摩4、土佐1、幕臣1であり、、長州藩と薩摩藩の出身者が要職に就いていることが分かります。
 このメンバーの中では、西郷隆盛の16歳年下の実弟・西郷従道(じゅうどう)の海軍大臣就任にバランスを感じさせます。反逆者の兄を持つ従道は、後に、伊藤博文から後継総理に推挙されると、「不肖の今日あるは、ひとえに兄隆盛の庇護によるのみでございます。みずから総理大臣になるなどは思いもよらぬところであります」と固辞したと伝わっています。
  官職・氏名・出身・年齢・爵位
 · 総理:伊藤博文:長州:45:伯
 · 外務:井上 馨:長州:51:伯
 · 内務:山県 有朋:長州:48:伯
 · 大蔵:松方正義:薩摩:51:伯
 · 陸軍:大山 厳:薩摩:44:伯
 · 海軍:西郷従道:薩摩:43:伯
 · 司法:山田顕義:長州:42:伯
 · 文部:森 有礼:薩摩:39:
 · 農商務:谷干城:土佐:49:子
 · 逓信:榎本武揚:幕臣:50:
 明治新政府は、当初、討幕派の「薩長土肥」と公家によって作られますが、倒幕そして維新という目標を達成すると直ぐに勢力争いを始めています。
 明治政府は、廃藩置県の詔書を公布した明治4年には、薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信による参議内閣を作ったのに、その14年後には、長州4、薩摩4、土佐1、幕臣1と大きく様変わりしています。
 その後の総理大臣出身藩(県)を見ても、長州(山口県)出身は、伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、菅直人、安倍晋三と8人も輩出しているのに、薩摩(鹿児島)出身は、黒田清隆、松方正義、山本権兵衛の三人だけです。これも、藩閥政治の名残りでしょうが、戦後には群馬県から四人も輩出していることが目立っています。

【西郷従道(信吾)の名言集】総理大臣を何度も断った西郷隆盛の弟 https://youtu.be/dOp_HKpKLkU

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2018年10月14日 (日)

慶喜は植民地寸前の日本を救った

 大河ドラマ「西郷どん」も愈々佳境に入り、14日、第38回は「傷だらけの維新」です000025bo1204203200_
 きっと、上野寛永寺に立て籠る彰義隊攻撃に、新政府軍は最新鋭の7連発スペンサー銃やミニエー銃、佐賀藩のアームストロング砲で半日で蹴散らします。北越戦争では、長岡藩は河井継之助指揮の元、ガトリング砲2挺のほか、アームストロング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃などの最新兵器で応戦するはずです。
 このように戊申戦争では、米国の南北戦争 (1861~1865年)終結で余った最新鋭の武器は、仏国経由で幕府に、英国経由で薩長に大量に売られていたのです。
 当時の武器製造は、英のアームストロング社と仏のシュネーデル社が二分していましたが、どれも最強の財閥ロスチャイルド系であり、その日本人手下(営業マン)が、坂本龍馬、岩崎弥太郎、大倉喜八郎、安田善次郎らでした。“死の商人”は戦争の匂いがす1867_image2ると、チャンスとばかりに敵対する双方に武器を売っていたのです。その窓口は、香港に設立したロスチャイルド系のHSBCホールディングスで、横浜に支店、長崎に代理店(グラバー商会)がありました。
 そして、内乱で弱った日本を攻めて植民地支配の陰謀があったことに気付いたのは、徳川慶喜や一部の幕臣でした。
  10月7日放送の「西郷どん」では、江戸城を無血開城後、上野寛永寺に蟄居していた慶喜を西郷が訪問し、鳥羽伏見の戦いから「敵前逃亡」、「腰抜け将軍」などと非難されても、大坂城を脱出した理由を語っていました。
 西郷は慶喜に、「何故戦わずに逃げられたのですか?本当においたちが恐ろしくて逃げたのでございますか?」と尋ねると、慶喜は「俺はロッシュ殿から逃げたのだ」、「あの男は俺にもちかけた。いざとなれば、フランスが援助すると。精鋭なフランス軍12万と、銃を5万丁。直ちに遣わそう。その代わり、勝利した暁には薩摩をよこせと」、「日本の中で、フランスとイギリスが戦い、勝った方が日本を乗っ取る。俺にできることは、逃げることしかなかった」と語っていました。NHKの大河ドラマは全体に史実と違う場面が多すぎるのですが、この脚色は評価したいと思います。
 このロッシュとは、幕末の駐日フランス公使のレオン・ロッシュのことで、慶喜が江戸に戻ってからも、三度も江戸城を訪ね、再起を促すも慶喜は動きませんでした。慶喜は水戸藩の江戸藩邸で生まれ、11才で一橋家の養子となりますが、きっと「天皇家と徳川家が対立したら天皇家に味方せよ」との光圀公の教えを知っていたはずです。なお、広瀬隆著の「赤い楯」ロスチャイルドの謎―は手元にありますが、この一族がいかにして世界を裏で操るまで至ったかが書かれています。

1865年3月3日、香港にHSBCホールディングス設立
1865年5月、亀山社中(海援隊)を結成
1866年 HSBCホールディングスは横浜に日本支店設立
1866年3月7日、薩長同盟締結
1866年7月28日、パークス公使ら英国使節団(五代友厚、森有礼ら)歓迎の宴
1867年11月9日、大政奉還
1867年12月10日、坂本龍馬暗殺
1868年1月8日、徳川慶喜は大阪城にて仏国公使レオン・ロッシュと会見。
1868年1月27日、鳥羽伏見の戦い
1868年1月30日、徳川慶喜はひそかに大阪城を脱出し、江戸へ
1868年2月12日、仏国ロッシュ、徳川慶喜に再起を促すが、慶喜はこれを拒否
1868年2月18日、英国公使パークス、戊辰戦争に英国の局外中立を宣言。
1868年3月 5日、徳川慶喜、江戸城を出て上野・寛永寺に蟄居
1868年3月16日、勝海舟、陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命される。
1868年4月 5日、勝・西郷会談。パークスの圧力もあり江戸攻撃中止が決定
1868年5月 3日、江戸城無血開城
1868年5月22日、パークス、ビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出
1868年10月6日、新政府軍、会津領内に侵攻
1868年10月23日、明治維新

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2018年10月 9日 (火)

10月9日は「シーボルト事件」発覚

 お客様の中に、千葉県香取市の伊能忠敬の子孫がおられ思い出しています。000000001204203200_
 文政11年(1828年)10月9日は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866年)が帰国準備の最中、日本で収集した品々を積んで先発した船が台風(シーボルト台風)で座礁し、船の修理の際に、積荷の中から禁制品の地図などが発覚した日です。
 当時の日本は西洋人はオランダ人しか入国できず、ドイツ人のシーボルトはオランダ人と偽って1822年に入国しています。入国の際、シーボルトの話すオランダ語を怪しまれまれるも、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」と偽って、その場を切り抜けたことは有名です。そして約6年間の滞在中に、浮世絵や屏風などを多くのコレクションの中に、伊能忠敬らが測量した持出禁止の日本地図の写しを持ち帰ろうとした事件でした。
 この事件に関与した人物として、シーボルトが入手した日本地図は、幕府天文方・書物奉行の高橋景保から入手したもので、発覚は、間宮林蔵(1780~1844年)の密告からとされます。間宮林蔵は、常陸国筑波郡上平柳村(茨城県つくばみらい市)の農家で誕生し、後に蝦夷地(現北海道)に測量に来ていた下総の佐原(現千葉県香取市)商家出身の伊能忠敬(1745~1818年)に測量技術を学んでいます。
 そして、1809(文化6)年、間宮海峡を発見する偉業を成し遂げ、更にシーボルト事件という密貿易の摘発に貢献したからでしょうか公儀隠密として活躍しています。
 なお、シーボルトは国外追放になるも、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、追放令も解除されると、1859年、オランダ貿易会社の顧問として再来日しています。
間宮林蔵記念館は茨城県つくばみらい市上平柳64
伊能忠敬記念館は千葉県香取市佐原イ1722−1
シーボルト記念館は長崎県長崎市鳴滝2丁目7−40

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2018年10月 8日 (月)

徳川家と対立したら天皇側に立て

 安政5年(1859)10月7日に始まる「安政の大獄」は「!獄門」と覚え1859_10_7たものでした。
 その翌年、1860年の「桜田門外の変」は天皇家と徳川家が対立したら真っ先に天皇家に味方せよと遺言した水戸藩主の徳川光圀公の教えを、忠実に守った結果でした。
 水戸黄門こと徳川光圀(1628~1701年)は、漢民族による最後の王朝「」(1368~1644年)から日本に亡命した朱子学の朱舜水(1600~1682年)を自藩に招いて学問の師としました。
 その朱舜水から、日本の歴史は天皇による普遍的な統治が継続する唯一の国と教えられ、大日本史の編纂を決意しています。そして万が一、天皇家と徳川宗家が対立するようなら、真っ先に天皇家に味方せよと遺言したとされます。
 このように、水戸藩で生まれた「水戸学」の尊王攘夷思想は、水戸学の権威である藤田東湖は勿論、佐久間象山、吉田松陰、横井小楠、西郷隆盛、橋本佐内など多くの思想家や志士に影響を与え、倒幕の原動力となっています。
 幕末は、一般的に1853年のペリーが浦賀に来航したことで「鎖国」に終わりを告げ、「日米和親条約」締結。孝明天皇は意義ありと水戸藩に「戊午の密勅」を下し。その密勅は水戸藩の陰謀だと、藩主・水戸斉昭は蟄居、家老・安島帯刀に1859年9月23日切腹を命じて「安政の大獄」が始まります。そして、安政六年(1859年)10月7日に越前藩士・橋本左内、儒学者・頼三樹三郎ら尊皇攘夷派や一橋派の大名・公卿・志士ら100人以上を粛清。しかし、大老とは言え「徳川の一家臣に過ぎない井伊直弼如きが・・・」と、徳川御三家 (紀伊・水戸・尾張)の一つ水戸藩士らによる「桜田門外の変」のほか、「坂下門外の変」、「天狗党の乱」など次々と惹起して、尊王攘夷運動を先駆けますが、当然多くの犠牲者を出しています。
 この水戸学に影響を受けた事件は、昭和になっても尾を引き、 1932年(昭和7年)の「血盟団事件」では、茨城県大洗海岸の日蓮宗・東光山立正護国寺住職の井上日召や暗殺実行の小沼正、菱沼五郎は旧水戸藩出身でした。また、1932年(昭和7年)の海軍将校らが中心の「五・一五事件」では、愛郷塾主宰で水戸出身の橘孝三郎は塾生7人を率いて都内の変電所数か所を次々と襲撃。そして、1936年(昭和11年)の陸軍青年将校を中心とした「二・二六事件」では、皇道派の昭和維新の論理的支柱とされた北一輝の思想は、水戸学から吉田松陰をへて北一輝に受け継がれた右翼テロリズムでした。また、昭和45年11月25日の「三島事件」で三島由紀夫を介錯した森田必勝は水戸学の信奉者でした。(森田は三島と共に自決)
 一点付け加えますと、日蓮の「立正安国論」は水戸学にも影響した理論とされますが、本来は「保守思想」の原典なのに、宗教団体や過激な右翼思想に歪曲されていると批判されています。

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2018年10月 1日 (月)

多摩の「農兵」取立てのこと

 北欧のスウェーデンは、2010年に廃止した徴兵制を今年復2018_9_26image1活したそうです。復活の理由に、ロシアの軍事的野心やイスラム過激派テロを上げています。日本は、スウェーデンの「ゆりかごから墓場まで」を目標にしますが、実際は「国防こそが最大の福祉」と理解している国です。日本では考えられない事です。
 さて、日本の徴兵は明治6年に始まりますが、農兵の取立て(徴兵)は文政5年(1822年)の水戸藩が最も早いながら早々に解散。本格的な農兵(西洋式軍隊)は、嘉永2年(1849年)に伊豆韮山の江川太郎左衛門代官が所管する、伊豆や相模国、武蔵国などが最初です。キッカケは、天保8年(1837年)浦賀に来航した米国の商船モリソン号に、日本側の砲台が攻撃した事でした。
 最近、東大和市の現場近くで、蔵敷調練場跡(東大和市Image5蔵敷2-510) の案内板を見付けました。調べると多摩地域の農兵を訓練した場所でした。ネットでも「幕末多摩・ひがしやまと」で、蔵敷村(現・東大和市)名主の内野杢左衛門が著した里正日誌から、農兵のことを紹介していました。
「里正日誌」を原文で読む - 幕末多摩・ひがしやまと
 「里正(りせい)とは名主のことで、杢左衛門は幕末から明治期にかけ、多摩地域の動きを著した日誌です。杢左衛門は江川代官の指示で、日野宿の名主で新撰組の育ての親・佐藤彦五郎と協力し、農兵を編成したと紹介しています。農兵は、1863年に創設した長州の奇兵隊が有名ですが、伊豆や多摩では、それより15年も前に編成していました。きっと、この辺りは幕府直轄地として、農民も国防意識が高かった証と思います。事実、農兵は三浦半島最東端の観音崎や台場警備に従事した記録が残っています。Nirayama_ken_image
 なお、冒頭に福祉の国「スウェーデン」と紹介しましたが、一早く「ゆりかごから墓場まで」のスローガンを掲げたイギリスやデンマーク同様に早々に経済が崩壊しているそうです。そして、日本もいずれこうなる?!のではと心配しています。
国立も富士宮も「韮山県」だった: 大日建設の社長日記

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2018年9月 2日 (日)

ドイツのビスマルク宰相を想う

 先日立ち寄ったファミレスのメニューに「ビスマルク風○○○」を見付けて、Bismarck_image3思わず、この風貌や名言とともに、日本に大きな影響を与えた数々を思い出していました。岩倉使節団はビスマルクから、「国際社会で小国が生き残るためには国家を強くしなければならない」と諭され、目から鱗状態となり、明治政府は「富国強兵・殖産興業」の大方針を決定したとされます。
 岩倉具視、桂小五郎、大久保利通、伊藤博文ら幕末の志士たちで構成した使節団107名は、欧米に倣った近代国家を目指すため、明治4年11月12日~明治6年9月13日まで米国や欧州に派遣されます。最も強い影響を受けたとされるドイツでは、ドイツ帝国統一を成し遂げたばかりの宰相ビスマルクから夕食に招かれ、その時の言葉に我が意を得たりと感化されました。そして、主にドイツの政治体制を手本に近代化を進めますが、後の日本に光と影を落としたとされます。
 加来耕三は著書『不敗の宰相・大久保利通』で、ビスマルクの言葉を次のよう0000060641_wに紹介しています。 
 「世界の各国は、みな親睦、礼儀をもって相交っているが、それはまったく表面上のことで、内面では強弱、相凌(あいしの)ぎ、大小相侮(あいあなどる)るというのが実情である。私の幼時には、我がプロシアがいかに貧弱であったかは、諸公も知られるところであろう。この時にあたって、小国の状態を親しく閲歴してきた私が、常に憤懣を抱いていたことは、今にいたっても決して忘れることはできない。」、「いわゆる公法(国際公法、万国公法)というのは、列強の権利を保全する不変の道とはいうものの、大国が利を争う場合、もし自国に利ありとみれば公法に固執するけれども、いったん不利となれば、一転、兵威(兵力、武力)をもってするのである。だから、
公法は常にこれを守らなければならないというものではないのだ
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 事実、大東亜戦争では、国際法を無視した本土空襲不可侵条約を無視した侵略、そして事後法による東京裁判などで貶められます。なお、宰相・ビスマルクは美食家として知られ、日本でも、「ビスマルク風ピザ」や「ビスマルク風ハンバーグ」、アスパラに目玉焼きを乗せた料理などが知られています。きっと、使節団も食べたから、日本に広まったのでしょうが、大国は不利になったら国際法を無視すると言う教えは忘れてしまったのか・・・・。

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2018年8月31日 (金)

東大和市奈良橋で執筆した五日市憲法

 総裁選を前にして、憲法改正案が次の国会で提出する考えが示されたようです。Kenpou_image12
 ところで、明治22年2月11日に明治憲法が公布される数年前には、国民から50件以上もの私擬憲法が草案されていました。如何に、近代国家の根幹となる憲法制定という国家事業に国民が強い関心を寄せていたかを偲ばせます。
 その代表が、仙台藩出身の千葉卓三郎(1852年8月2日~1883年11月13日)執筆の、五日市町(現あきる野市)の深沢家の土蔵から発見された204条からなる完成度が高い「五日市憲法」です。この草案は、明治14年の執筆で、場所は千葉卓三郎が東大和市の奈良橋村(現・奈良橋二丁目)に身を寄せていた豪農の鎌田家でした。その45(第45条)には、「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ。」などがあり、これは現行憲法と同じ視点に立っていると評価されています。
 また、この憲法草案に対して、美智子皇后は「民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」と感想を述べられたそうです。
 千葉卓三郎は、鎌田家では子供達三人の家庭教師だったそうです。
 長男の喜三は、後に東大和界隈の民権運動の第一人者となり、神奈川県会議員(当時・神奈川県)、東京府会議員などを務めています。又、次男・喜十郎の戒名の側には「千葉先生仙臺の人」と刻まれ、卓三郎を尊敬していたことを伺わせています。
 これらのことは、護憲運動の「九条の会」の広報紙で知ったのですが、「五日市憲法」をPRしていることからも、きっと、「九条の会」でも、明治時代の「五日市憲法」に負けないような私擬憲法の草案を進めていることでしょう。
 下段の動画の23分ころから「五日市憲法」の話題です。
帝国憲法はこうして誕生した 明治の国家ビジョン (2012年)
  https://youtu.be/E16HXOZE1rE

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2018年8月22日 (水)

大井川の木造橋「蓬莱橋」のこと

 時代劇を見ていると、若い頃出かけた静岡県の大井川に架かる蓬莱橋が画面に映し出されることがあります。2018725_imageかつて、駿河と遠州の国境を分けた大井川に架かる蓬莱橋(ほうらいばし)は、静岡県島田市南2丁目先に架かる木造の橋で、長さが「897.4m」から「厄無し」とされ、更にギネスに認定された世界一長い木の橋=長生き橋などと呼ばれています。
 東海道最大の難所は、箱根と大井川とされますが、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と唄われています。また「箱根の山は、天下の嶮 函谷關もものならず・・・」と唄っても、何とか通行できましたが、暴れ川の大井川は氾濫が多く、旅人は川越人足から渡してもらうため、大雨で川留めにImage1_2なると、両岸の金谷宿島田宿は宿場町として栄え、多くの旅人、川越人足や女郎衆で賑ったそうです。
 大井川に橋を架けなかったのは、国境を守るという軍事目的からでした。それが、明治12年に島田市に蓬莱橋という木造橋(農道)が、歩行者と自転車の専用に架けられ、今では観光地として渡り賃は大人100円です。また珍しい光景から、映画やドラマのロケ地に使用され、「座頭市」、「男はつらいよ」、「必死剣鳥刺し」、「雨あがる」、「水戸黄門」などに登場します。最近でも「超高速!参勤交代」で使われていましたが、実際は明治12年の架橋ですから、江戸時代には無かったのです。
 ところが、度々洪水で破壊され、昭和40年に橋脚のみコンクリートに改造されながらも、1997年(平成9年)に「世界一長い木造歩道橋」としてギネス認定を受けています。
 なお、大井川によって長年、人の往来が厳しく制限されていたことから、言葉や食文化、住民の気質、名古屋圏と東京圏などの分かれ目と面白可笑しく語られますが、今では殆ど差はないそうです。これも蓬莱橋などにより、人々の往来が便利になった結果でしょう。このようなグローバル化なら歓迎される話です。 

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2018年6月 3日 (日)

米朝のギリギリの交渉に想う

 戦後の歴代米大統領が何人かかっても出来なかった対北朝鮮政策201864_image_48857の転換に向けて、今、トランプ政権と北朝鮮はギリギリの交渉が続いています。長年の、もつれ切った関係から互いのハードルが高いこともあり、6月12日の会談一回で全てがスッキリするには困難でしょうが、まずはトランプ大統領の英断と「アメとムチ」という、硬軟使い分けたコワモテぶりの交渉に全面的に期待したいものです。
 最近の動きでは、5月24日には北朝鮮の崔善姫外務次官は、ペンス米副大統領との会談後、「愚か」と非難し、外交が失敗した場合には「米国が我々と会議室で会うか、核対核の最終決戦で対決するのかは、完全に米国の決断と振る舞いにかかっている」と高飛車に警告。また25日には豊渓里の核実験施設を専門家を入れずに見せかけの爆破。
 これらに怒ったトランプ大統領は即座に反応して首脳会談を中止と発表すると、北朝鮮は相当ビックリしたのか9時間後に、狼狽したようなコメントで会談の実現を呼び掛けていました。そして、5月26日には南北首脳会談を電撃的に開催して、金委員長は米朝首脳会談実現に「確固たる意思」を表明。6月1日にも、金委員長の腹心・金英哲副委員長が、金委員長の親書をトランプ大統領に手渡すために渡米するなど、北朝鮮は百戦錬磨のトランプ大統領に完全に手玉にとられた格好です。
  12日まで約一週間の今は、朝鮮戦争の終結宣言、朝鮮半島の非核化宣言、その手順、査察、廃棄の方法、日本人拉致問題の解決、その後の北朝鮮の体制保障、経済支援など具体的な事に及んでいるはずです。特に日本としては、平成14年の「日朝平壌宣言」で交わした、核・ミサイル・拉致問題を解決した先には、日朝国交正常化が交渉が待っており、いずれ多額の経済支援が要求されることを覚悟すべきです。なお、今年は明治維新から150年目ですが、この間、朝鮮半島の地政学的な位置から、日本人と同等に処遇した併合問題、日清、日露戦争など、日本が困難に陥った背景には、常に半島を巡る対立があったことを思い出す必要がありそうです。

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