13、明治150年

2018年9月13日 (木)

「気をつけ」「休め」などの始まり

 韮山には小学生当時に遠足で連れて行かれただけですが、教練のEgawa_daikan_13号令から幕末に活躍した静岡・伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍(号は坦庵)のことを思い出しています。
 さて、警察署や消防署前を通りがかると、中庭から「気をつけ」「休め」「右向け、右」「右へ、ならえ」「前へ、ならえ」「回れ右」などの号令が聞こえることがあります。このような教練の号令は、警察、自衛隊、消防、消防団、警備員、学校など日本中で同じような発声と動作で行われています。この教練の始まりは、幕末にマルチの活躍をした江川英龍(号は坦庵)(1801~1855)でした。「江川太郎左衛門」は世襲名で、江戸時代に伊豆・駿河・相模・甲斐・武蔵などの広大な天領を管轄した伊豆国田方郡韮山(伊豆00008aの国市)を本拠とした江戸幕府の代官です。中でも、36代の江川英龍(ひでたつ)が有名ですが、遠足で行った当時は郷土の偉人とは知りませんでした。ただ、伊豆方面では「世直し江川大明神」の異名があるほど人気だそうです。
 江川代官が歴史の表舞台に引きずり出されるのは、1853年のペリー来航に遡ること16年前の天保8年(1837年)、日本人漂流民7名を帰国させる目的と、対日通商とキリスト教布教を求めて浦賀に来航した米国船「モリソン号」に、日本が砲撃する「モリソン号事件」が起きてからです。このとき、江川代官は江戸湾入口に位置する下田は、海防上重要地点と気が付き、「台場」の設営と台場に配備する大砲を鋳造する「韮山反射炉」を建造しますが、今では世界遺産に登録されています。
 他にも、嘉永2年(1849年)には、下田に英国軍艦マリナー号が現れ、無断で測量を開始したことに立腹し、江川代官は予てから訓練していた伊豆・金谷村(伊豆市の大部分)の農兵500人を動員して威圧し、マリナー号に退去を勧告し見事に退去させたのです。この農兵(農民による西洋式軍隊)を組織する際に協力したのが、日野宿の名主で新撰組副長・土方歳三の義兄で、自宅である日野宿本陣に天然理心流の道場を開いた佐藤彦五郎でした。
 当時、農民を取り立て(徴兵した)西洋式軍隊を農兵と言い、1863年に創設した長州藩士高杉晋作の奇兵隊が有名ですが、伊豆や多摩地域では、それより15年も前に編成されていたのです。そして、ゲベール銃やスペンサー銃などを持たせて、今も通用する教練の基本や号令の要領を、江川家・親族の石井修三に頼んで西洋の文献から日本語に訳させ、農兵部隊に教練していたのです。
国立も富士宮も「韮山県」だった: 大日建設の社長日記

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年9月 2日 (日)

ドイツのビスマルク宰相を想う

 先日立ち寄ったファミレスのメニューに「ビスマルク風○○○」を見付けて、Bismarck_image3思わず、この風貌や名言とともに、日本に大きな影響を与えた数々を思い出していました。岩倉使節団はビスマルクから、「国際社会で小国が生き残るためには国家を強くしなければならない」と諭され、目から鱗状態となり、明治政府は「富国強兵・殖産興業」の大方針を決定したとされます。
 岩倉具視、桂小五郎、大久保利通、伊藤博文ら幕末の志士たちで構成した使節団107名は、欧米に倣った近代国家を目指すため、明治4年11月12日~明治6年9月13日まで米国や欧州に派遣されます。最も強い影響を受けたとされるドイツでは、ドイツ帝国統一を成し遂げたばかりの宰相ビスマルクから夕食に招かれ、その時の言葉に我が意を得たりと感化されました。そして、主にドイツの政治体制を手本に近代化を進めますが、後の日本に光と影を落としたとされます。
 加来耕三は著書『不敗の宰相・大久保利通』で、ビスマルクの言葉を次のよう0000060641_wに紹介しています。 
 「世界の各国は、みな親睦、礼儀をもって相交っているが、それはまったく表面上のことで、内面では強弱、相凌(あいしの)ぎ、大小相侮(あいあなどる)るというのが実情である。私の幼時には、我がプロシアがいかに貧弱であったかは、諸公も知られるところであろう。この時にあたって、小国の状態を親しく閲歴してきた私が、常に憤懣を抱いていたことは、今にいたっても決して忘れることはできない。」、「いわゆる公法(国際公法、万国公法)というのは、列強の権利を保全する不変の道とはいうものの、大国が利を争う場合、もし自国に利ありとみれば公法に固執するけれども、いったん不利となれば、一転、兵威(兵力、武力)をもってするのである。だから、
公法は常にこれを守らなければならないというものではないのだ
--------------------------------------------------------
 事実、大東亜戦争では、国際法を無視した本土空襲不可侵条約を無視した侵略、そして事後法による東京裁判などで貶められます。なお、宰相・ビスマルクは美食家として知られ、日本でも、「ビスマルク風ピザ」や「ビスマルク風ハンバーグ」、アスパラに目玉焼きを乗せた料理などが知られています。きっと、使節団も食べたから、日本に広まったのでしょうが、大国は不利になったら国際法を無視すると言う教えは忘れてしまったのか・・・・。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年8月31日 (金)

東大和市奈良橋で執筆した五日市憲法

 総裁選を前にして、憲法改正案が次の国会で提出する考えが示されたようです。Kenpou_image12
 ところで、明治22年2月11日に明治憲法が公布される数年前には、国民から50件以上もの私擬憲法が草案されていました。如何に、近代国家の根幹となる憲法制定という国家事業に国民が強い関心を寄せていたかを偲ばせます。
 その代表が、仙台藩出身の千葉卓三郎(1852年8月2日~1883年11月13日)執筆の、五日市町(現あきる野市)の深沢家の土蔵から発見された204条からなる完成度が高い「五日市憲法」です。この草案は、明治14年の執筆で、場所は千葉卓三郎が東大和市の奈良橋村(現・奈良橋二丁目)に身を寄せていた豪農の鎌田家でした。その45(第45条)には、「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ。」などがあり、これは現行憲法と同じ視点に立っていると評価されています。
 また、この憲法草案に対して、美智子皇后は「民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」と感想を述べられたそうです。
 千葉卓三郎は、鎌田家では子供達三人の家庭教師だったそうです。
 長男の喜三は、後に東大和界隈の民権運動の第一人者となり、神奈川県会議員(当時・神奈川県)、東京府会議員などを務めています。又、次男・喜十郎の戒名の側には「千葉先生仙臺の人」と刻まれ、卓三郎を尊敬していたことを伺わせています。
 これらのことは、護憲運動の「九条の会」の広報紙で知ったのですが、「五日市憲法」をPRしていることからも、きっと、「九条の会」でも、明治時代の「五日市憲法」に負けないような私擬憲法の草案を進めていることでしょう。
 下段の動画の23分ころから「五日市憲法」の話題です。
帝国憲法はこうして誕生した 明治の国家ビジョン (2012年)
  https://youtu.be/E16HXOZE1rE

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年8月22日 (水)

大井川の木造橋「蓬莱橋」のこと

 時代劇を見ていると、若い頃出かけた静岡県の大井川に架かる蓬莱橋が画面に映し出されることがあります。2018725_imageかつて、駿河と遠州の国境を分けた大井川に架かる蓬莱橋(ほうらいばし)は、静岡県島田市南2丁目先に架かる木造の橋で、長さが「897.4m」から「厄無し」とされ、更にギネスに認定された世界一長い木の橋=長生き橋などと呼ばれています。
 東海道最大の難所は、箱根と大井川とされますが、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と唄われています。また「箱根の山は、天下の嶮 函谷關もものならず・・・」と唄っても、何とか通行できましたが、暴れ川の大井川は氾濫が多く、旅人は川越人足から渡してもらうため、大雨で川留めにImage1_2なると、両岸の金谷宿島田宿は宿場町として栄え、多くの旅人、川越人足や女郎衆で賑ったそうです。
 大井川に橋を架けなかったのは、国境を守るという軍事目的からでした。それが、明治12年に島田市に蓬莱橋という木造橋(農道)が、歩行者と自転車の専用に架けられ、今では観光地として渡り賃は大人100円です。また珍しい光景から、映画やドラマのロケ地に使用され、「座頭市」、「男はつらいよ」、「必死剣鳥刺し」、「雨あがる」、「水戸黄門」などに登場します。最近でも「超高速!参勤交代」で使われていましたが、実際は明治12年の架橋ですから、江戸時代には無かったのです。
 ところが、度々洪水で破壊され、昭和40年に橋脚のみコンクリートに改造されながらも、1997年(平成9年)に「世界一長い木造歩道橋」としてギネス認定を受けています。
 なお、大井川によって長年、人の往来が厳しく制限されていたことから、言葉や食文化、住民の気質、名古屋圏と東京圏などの分かれ目と面白可笑しく語られますが、今では殆ど差はないそうです。これも蓬莱橋などにより、人々の往来が便利になった結果でしょう。このようなグローバル化なら歓迎される話です。 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2018年6月 3日 (日)

米朝のギリギリの交渉に想う

 戦後の歴代米大統領が何人かかっても出来なかった対北朝鮮政策201864_image_48857の転換に向けて、今、トランプ政権と北朝鮮はギリギリの交渉が続いています。長年の、もつれ切った関係から互いのハードルが高いこともあり、6月12日の会談一回で全てがスッキリするには困難でしょうが、まずはトランプ大統領の英断と「アメとムチ」という、硬軟使い分けたコワモテぶりの交渉に全面的に期待したいものです。
 最近の動きでは、5月24日には北朝鮮の崔善姫外務次官は、ペンス米副大統領との会談後、「愚か」と非難し、外交が失敗した場合には「米国が我々と会議室で会うか、核対核の最終決戦で対決するのかは、完全に米国の決断と振る舞いにかかっている」と高飛車に警告。また25日には豊渓里の核実験施設を専門家を入れずに見せかけの爆破。
 これらに怒ったトランプ大統領は即座に反応して首脳会談を中止と発表すると、北朝鮮は相当ビックリしたのか9時間後に、狼狽したようなコメントで会談の実現を呼び掛けていました。そして、5月26日には南北首脳会談を電撃的に開催して、金委員長は米朝首脳会談実現に「確固たる意思」を表明。6月1日にも、金委員長の腹心・金英哲副委員長が、金委員長の親書をトランプ大統領に手渡すために渡米するなど、北朝鮮は百戦錬磨のトランプ大統領に完全に手玉にとられた格好です。
  12日まで約一週間の今は、朝鮮戦争の終結宣言、朝鮮半島の非核化宣言、その手順、査察、廃棄の方法、日本人拉致問題の解決、その後の北朝鮮の体制保障、経済支援など具体的な事に及んでいるはずです。特に日本としては、平成14年の「日朝平壌宣言」で交わした、核・ミサイル・拉致問題を解決した先には、日朝国交正常化が交渉が待っており、いずれ多額の経済支援が要求されることを覚悟すべきです。なお、今年は明治維新から150年目ですが、この間、朝鮮半島の地政学的な位置から、日本人と同等に処遇した併合問題、日清、日露戦争など、日本が困難に陥った背景には、常に半島を巡る対立があったことを思い出す必要がありそうです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年3月21日 (水)

薩摩藩(鹿児島)と庄内藩(山形)の関係

 ドラマ「西郷どん」に庄内藩や清川八郎、新徴組のことが登場するのはImage先でしょうが、薩摩藩との深い関係を知識として押さえたいと思います。さて、藤沢周平作品に多く登場する海坂藩は、「江戸から北へ百二十里、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある。」とあり、比較的守りに強い地形と思われます。この架空の海坂藩は、藤沢周平の出身地・鶴岡市の酒井家庄内藩のことで、藩祖は徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の一人であり、水戸から秋田に転封した佐竹藩など外様大名に睨みを利かせる配置でした。庄内藩の歴代藩主の善政から、領民との関係も良く1840年(天保11)の三方国替えを百姓一揆で阻止したこともありました。
 ところが、幕末の1863(文久3)年に江戸市中取締りを受けることになり、会津藩の京都守護職同様に佐幕派の筆頭として歴史の表舞台に仕方なしに躍り出ることになります。そして、戊辰戦争の引き金となった江戸薩摩藩邸の焼討事件は、テロ破壊行為を繰り返す薩摩藩に対する、庄内藩による取締りの過程で発生するも対立が際立つことになります。結果的に戊辰戦争で賊軍になった庄内藩を西郷隆盛が一目置いた戦後処理をしたのは、百戦百勝の強さを認めたことと、薩摩藩を昆布などの密貿易で富ませた酒田出身の本間郡兵衛 (北曜)への恩義からとされます。
 戊申戦争は一般的に幕府側が惨敗した印象ですが、庄内藩は連戦連勝で勝ったまま降伏した藩でした。庄内藩が強かった理由に三方領地替えを阻止した藩と領民との連携同様に、戊申戦争でも農民や町民による民兵2200人を加えた約4500人の兵を編成したことや、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と謳われた豪商・本間家をバックにして、米国の南北戦争でも使用した七連発スペンサー銃の大量導入がありました。Ikun_satou慶応四年(明治元年・1868年)9月22日、官軍の猛攻に会津藩が屈すると、不敗の庄内藩も孤立無援となります。地の利と豊富な近代兵器で藩内に敵を一歩も踏ませなかったのに、孤立無援の状況と時勢を知り降伏・恭順を決めるも、鳥羽伏見の戦いの発端となった江戸薩摩藩邸の焼討事件などから厳しい報復処分を覚悟していました。
 ところが、西郷は降伏を受ける参謀の黒田清隆に「酒田は本間北曜先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ・・・」と指示していたとされ、この計らいで、藩主の謹慎、17万石から12万石に減封、30万両の献金という寛大な処分でした。この恩義を感じ、明治3年には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島入りし西郷の教えを受けることになります。その後、元庄内藩士らは西南戦争で失脚した西郷の復権運動と「南洲翁遺訓」の編纂に励むことになります。
 また酒田市には西郷を顕彰する南洲神社を建立したほどであり、更に、鹿児島市と鶴岡市は昭和44(1969)年、友好・姉妹都市として「徳の交わり」が続いています。
「新徴組」と「御回りさん」のこと。: 大日建設の社長日記
「新徴組」を知る切欠になるか: 大日建設の社長日記

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年3月16日 (金)

橋本左内の「稚心を去る」

 乏しい書棚に、西郷隆盛「南洲翁遺訓」、朱子学の入門書「近視録」、Sanai_image橋本左内の「啓発録」などが並んでいます。若い頃、幕末の志士らに思いを馳せたことを回顧するも、全てに「少年老いやすく学成り難し」の心境です。特に、橋本左内が16歳でまとめた「啓発録」は、小生の成人に頂いたもので「稚心を去れ」の教えを昨日の如く記憶しています。福井藩藩主松平慶永(よしなが)(春嶽)の側用人・橋本左内は、西郷隆盛が同輩で唯一尊敬した人物とされ、一橋慶喜の将軍擁立の裏工作に協力した事で、安政の大獄で26歳の若さで刑場の露と消えています。幕臣・水野忠徳は「左内を殺した事をもって、徳川を滅ぼすに足る」と語り、西郷も「左内を殺すとは、幕府は血迷っている」と述べています。
 徳川幕府は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約を締結し、横浜や神戸・函館などを開港して交易の約束をしますが、その5日後に、松平春嶽や徳川斉昭らは江戸城に押しかけ登城し、大老井伊直弼らに条約調印と将軍継嗣を糾弾した行動が安政の大獄の始まりでした。これにはペリー来航の序曲があり、当時、徳川将軍の家定(1824~1858)は虚弱体質で、後継将軍に老中・阿部正弘をはじめ、島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭らは一橋慶喜(徳川慶喜)を推挙(一橋派)し、対して、譜代大名や井伊直弼、徳川家定の生母・本寿院らは紀伊藩の徳川家茂(いえもち)を擁立(南紀派)した結果、血が濃い家茂(いえもち)が13歳で1859年14代将軍に就き、1862年皇妹・和宮との婚儀が上げるも1866年に21歳で死亡しています。
 なお「安政の大獄」は、徳川御三家などの親戚筋と一家来にすぎない井伊家との関係悪化とされ、それを制御出来ないほど落ちぶれた幕府の権威の失墜の表れでもありました。この「稚心を去る」は、大人になり切れない政治、憲法、防衛、18歳成人問題など、今の日本人に問いかけているようです。そして3月18日の「西郷どん」第11話は、次期将軍問題や篤姫を家定の御台所にする工作になるはずです。
 国立市で発見された龍馬の手紙: 大日建設の社長日記

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年3月11日 (日)

鹿島(水戸)と鹿児島は関係が深い?

 鹿島に「児」を加えて鹿児島と呼びますが、どんな関係があったのでしょうか。Bakumatu_8
 歴史学者の田中英道先生は、「神武天皇が正にこの鹿島から船出して、鹿児島に向かった船団によって、九州から西国を統一することが出来たことを、神武天皇元年に、宮柱を建てた、という神話に結びついたと考えられるのである」と語っています。先日、拙ブログで「鹿島立ち」を話題にしましたが、防人が九州へ旅立つ決意だけでなく、太古の昔、神々が鹿島から鹿児島に向ったことも意味するはずです。さてドラマ「西郷どん」では、西郷はペリー来航翌年の安政元年(1854)3月6日に、江戸に着くと庭方役(密偵)を命じられ、これにより激動期の表舞台に登場することなりました。西郷の初仕事は、鹿島辺りの常陸国を領地とする水戸藩主・徳川斉昭と後の将軍・徳川慶喜に出会う場面でした。しかし実録では、島津斉彬の茶道方(茶坊主)・樺山三円(資之)の案内で、徳川斉昭の側近・尊皇思想(水戸学)の学者・藤田東湖と会うことのはずです。
 樺山三円も茶坊主として機密を扱う立場は、西郷と似た任務があったようです。
 そして西郷は、東湖の紹介で水戸藩家老・戸田忠敬(蓬軒)、弟の安島帯刀らと親交を深00204203200_め、幕府の機密を知ることができたものの、それが災いして安政の大獄で失脚することになります。水戸藩は、中国のから亡命した儒学者・朱舜水に影響された光圀公以来、尊王思想を掲げ、事実、幕末には、桜田門外の変、坂下門外の変、水戸天狗党の乱などを起こすなど、尊王派の中心地であったことも押さえたいことです。
 そして、3月11日放送の「西郷どん」第10話に、越前福井藩の橋本佐内が登場ですが、西郷は後年、東湖と左内を讃えて「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、共に最も尊敬した人である」と語っています。安政の大地震で圧死した東湖や戸田忠敬、安政の大獄で刑死した左内や切腹した安島帯刀の志しを継ぎ、命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬと縦横無尽の活躍をしています。
 なお、鹿児島には、神武天皇が東征に出航したとされる神武天皇御出航碑もありますので、きっと、西郷をはじめ薩摩藩士も討幕に際して意識したはずですし、また「水薩同盟」がナゼ崩壊したのかも注目したいものです。
 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年3月 5日 (月)

明治10年3月は「田原坂の戦い」の最中

 今年のNHK大河ドラマは「西郷どん」ですが、「江戸幕府、一夜むな(1867)しく崩れけり」から150年の節目からでしょう。昨日3月4日放送は「江戸のヒImage6ー様」で、島津斉彬に御庭番(密偵)として引き立てられた西郷隆盛がヒー様こと後の将軍・一橋慶喜との接点を描いていました。
 ところで、明治十年(1877年)3月は「田原坂の戦い」の真っ只中でしたが、この戦いが西南の役の分水嶺とされ、敗れた薩軍は南へ南へと敗走することになりました。そして西郷隆盛が鹿児島の城山で自刃の時、「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたでごわす・・・・」と言ったとか言わないとか・・・・。城は三日で落とすと豪語していた西郷軍は、明治10年2月22日~4月14日まで熊本城を包囲し攻撃するも、加藤清正が築いた難攻不落の城を落とすことは出来なかったことや、ダラダラ坂と切り通しが続く天然の要害「田原坂(たばるざか)」の地形は、「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂・・・」と歌われています。特に3月4日~20日までの17日にも及ぶ田原坂の戦いは、日本人同士の最後の壮絶な戦いの舞台とされ、新政府軍(陸軍)を指揮した山縣有朋は苦戦の中、渋々ながら後方支援中の警視庁部隊から剣に覚えの警察官を選抜して警視庁抜刀隊と名付け、百十余名を以って刀だけで斬り込み膠着状態を打破したと言われます。
 ドラマ「西郷どん」での西南の役の場面は、きっと最終回になるはずです。なお、加藤清正公の墓は山形県鶴岡市(庄内藩)にあり、その隣町酒田市には南洲神社と「徳の交わり~南洲翁と臥牛翁」の銅像があることも面白いことです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2017年10月21日 (土)

この問題に深入りしたら抹殺?

 「タックスヘイブン(租税回避地)」による世界の指導者らの不正を暴いPanama_papers_imageた「パナマ文書(Panama Papers)」の報道に参加した地中海の島国マルタの女性記者、ダフネ・カルアナガリチアさん(53)が10月16日、車を運転中に仕掛けられていた爆弾によって殺害されました。
  カルアナガリチアさんは、マルタのムスカット首相夫妻の不正資金疑惑を報じるなど、同国随一の調査報道記者として知られていましたが、脅迫を受けているとして、最近、警察に相談していたとの情報もあったそうです。ムスカット首相は、「報道の自由に対する野蛮な攻撃」だと非難。米連邦捜査局(FBI)の支援も受け、事件を徹底的に捜査する意向を示した。(共同)
 ところが、これほどインパクトある事件なのに、日本ではテレビ報道などは極めて小さい扱いのようです。きっと、日本人顧客の716名も含めて、世界中の著名な偽善者の名前に日頃の正義ぶった人達も躊躇するのか。それに、カルアナガリチアさんのように殺されては何にもならないと二の足を踏むのか・・・・・「一人殺せば殺人犯、100万人殺せば英雄」とも言いますが、巨万の富がありながら払うべき税金を払わない「タックスヘイブン」も、これに近い印象です。
 暗殺と言う「死人に口無し」は、マスコミ人に対する一番簡単な恫喝なのでしょう。



@kama_yam @OUtn6
>ケイマン諸島だけの活用に限っても、日本の大企業は55兆円」
⇒ 【高い税金を負担するようになる一般市民】
➠おい、政府・国会よ。消費者は1円の価格、買い物で迷っているんだぜ。
「消費税増税の前にやる事がある」だろう!

| | コメント (2) | トラックバック (0)