薩摩藩(鹿児島)と庄内藩(山形)の関係
ドラマ「西郷どん」に庄内藩や清川八郎、新徴組のことが登場するのは先でしょうが、薩摩藩との深い関係を知識として押さえたいと思います。さて、藤沢周平作品に多く登場する海坂藩は、「江戸から北へ百二十里、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある。」とあり、比較的守りに強い地形と思われます。この架空の海坂藩は、藤沢周平の出身地・鶴岡市の酒井家庄内藩のことで、藩祖は徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の一人であり、水戸から秋田に転封された佐竹藩など外様大名に睨みを利かせる配置でした。庄内藩の歴代藩主の善政から、領民との関係も良く1840年(天保11)の三方国替えを百姓一揆で阻止したこともありました。
ところが、幕末の1863(文久3)年に江戸市中取締りを受けることになり、会津藩の京都守護職同様に佐幕派の筆頭として歴史の表舞台に仕方なしに躍り出ることになります。そして、戊辰戦争の直接の引き金となった江戸薩摩藩邸の焼討事件は、テロ破壊行為を繰り返す薩摩藩に対する、庄内藩による取締りの過程で発生するも対立が際立つことになります。結果的に戊辰戦争で賊軍になった庄内藩を西郷隆盛が一目置いた戦後処理をしたのは、百戦百勝の強さを認めたことと、薩摩藩を昆布などの密貿易で富ませた酒田出身の本間郡兵衛 (北曜)への恩義からとされます。戊申戦争は一般的に幕府側が惨敗した印象ですが、庄内藩は連戦連勝で勝ったまま降伏した藩でした。庄内藩が強かった理由に三方領地替えを阻止した藩と領民との連携同様に、戊申戦争でも農民や町民による民兵2200人を加えた約4500人の兵を編成したことや、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と謳われた豪商・本間家をバックに、米国の南北戦争でも使用した七連発スペンサー銃の大量導入がありました。
慶応四年(明治元年・1868年)9月22日、官軍の猛攻に会津藩が屈すると、不敗の庄内藩も孤立無援となります。地の利と豊富な近代兵器で藩内に敵を一歩も踏ませなかったが、孤立無援の状況と時勢を知り降伏・恭順を決めるも、鳥羽伏見の戦いの発端となった江戸薩摩藩邸の焼討事件などから厳しい報復処分を覚悟していました。ところが、西郷は降伏を受ける参謀の黒田清隆に「酒田湊は本間北曜先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」と指示していたとされ、この計らいで、藩主の謹慎、17万石から12万石に減封、30万両の献金という寛大な処分でした。
これらに恩義を感じ、明治3年には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島入りし西郷の教えを受けることになります。その後、元庄内藩士らは西南戦争で失脚した西郷の復権運動と「南洲翁遺訓」の編さんに励むことになり、また酒田市には西郷を顕彰する南洲神社を建立したほどであり、更に、鹿児島市と鶴岡市は昭和44(1969)年、友好・姉妹都市として「徳の交わり」が続いているそうです。
■庄内藩、戊辰戦争で無敗を誇った最強の軍団。
江戸の治安を守り新徴組を擁し、薩摩藩邸焼き討ちから逆恨みされた。あまりの強さに敵は城下に入れなかったため地元でも知られていない
https://youtu.be/cI_gr4ZDh1Y
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