14、明治150年

2018年3月21日 (水)

薩摩藩(鹿児島)と庄内藩(山形)の関係

 ドラマ「西郷どん」に庄内藩や清川八郎、新徴組のことが登場するのはImage先でしょうが、薩摩藩との深い関係を知識として押さえたいと思います。さて、藤沢周平作品に多く登場する海坂藩は、「江戸から北へ百二十里、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある。」とあり、比較的守りに強い地形と思われます。この架空の海坂藩は、藤沢周平の出身地・鶴岡市の酒井家庄内藩のことで、藩祖は徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の一人であり、水戸から秋田に転封された佐竹藩など外様大名に睨みを利かせる配置でした。庄内藩の歴代藩主の善政から、領民との関係も良く1840年(天保11)の三方国替えを百姓一揆で阻止したこともありました。
 ところが、幕末の1863(文久3)年に江戸市中取締りを受けることになり、会津藩の京都守護職同様に佐幕派の筆頭として歴史の表舞台に仕方なしに躍り出ることになります。そして、戊辰戦争の直接の引き金となった江戸薩摩藩邸の焼討事件は、テロ破壊行為を繰り返す薩摩藩に対する、庄内藩による取締りの過程で発生するも対立が際立つことになります。結果的に戊辰戦争で賊軍になった庄内藩を西郷隆盛が一目置いた戦後処理をしたのは、百戦百勝の強さを認めたことと、薩摩藩を昆布などの密貿易で富ませた酒田出身の本間郡兵衛 (北曜)への恩義からとされます。戊申戦争は一般的に幕府側が惨敗した印象ですが、庄内藩は連戦連勝で勝ったまま降伏した藩でした。庄内藩が強かった理由に三方領地替えを阻止した藩と領民との連携同様に、戊申戦争でも農民や町民による民兵2200人を加えた約4500人の兵を編成したことや、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と謳われた豪商・本間家をバックに、米国の南北戦争でも使用した七連発スペンサー銃の大量導入がありました。Ikun_satou
 慶応四年(明治元年・1868年)9月22日、官軍の猛攻に会津藩が屈すると、不敗の庄内藩も孤立無援となります。地の利と豊富な近代兵器で藩内に敵を一歩も踏ませなかったが、孤立無援の状況と時勢を知り降伏・恭順を決めるも、鳥羽伏見の戦いの発端となった江戸薩摩藩邸の焼討事件などから厳しい報復処分を覚悟していました。ところが、西郷は降伏を受ける参謀の黒田清隆に「酒田湊は本間北曜先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」と指示していたとされ、この計らいで、藩主の謹慎、17万石から12万石に減封、30万両の献金という寛大な処分でした。
 これらに恩義を感じ、明治3年には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島入りし西郷の教えを受けることになります。その後、元庄内藩士らは西南戦争で失脚した西郷の復権運動と「南洲翁遺訓」の編さんに励むことになり、また酒田市には西郷を顕彰する南洲神社を建立したほどであり、更に、鹿児島市と鶴岡市は昭和44(1969)年、友好・姉妹都市として「徳の交わり」が続いているそうです。

庄内藩、戊辰戦争で無敗を誇った最強の軍団
 江戸の治安を守り新徴組を擁し、薩摩藩邸焼き討ちから逆恨みされた。あまりの強さに敵は城下に入れなかったため地元でも知られていない
 
https://youtu.be/cI_gr4ZDh1Y

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2018年3月16日 (金)

橋本左内の「稚心を去る」

 乏しい書棚に、西郷隆盛「南洲翁遺訓」、朱子学の入門書「近視録」、Sanai_image橋本左内の「啓発録」などが並んでいます。若い頃、幕末の志士らに思いを馳せたことを回顧するも、全てに「少年老いやすく学成り難し」の心境です。特に、橋本左内が16歳でまとめた「啓発録」は、小生の成人に頂いたもので「稚心を去れ」の教えを昨日の如く記憶しています。福井藩藩主松平慶永(よしなが)(春嶽)の側用人・橋本左内は、西郷隆盛が同輩で唯一尊敬した人物とされ、一橋慶喜の将軍擁立の裏工作に協力した事で、安政の大獄で26歳の若さで刑場の露と消えています。幕臣・水野忠徳は「左内を殺した事をもって、徳川を滅ぼすに足る」と語り、西郷も「左内を殺すとは、幕府は血迷っている」と述べています。
 徳川幕府は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約を締結し、横浜や神戸・函館などを開港して交易の約束をしますが、その5日後に、松平春嶽や徳川斉昭らは江戸城に押しかけ登城し、大老井伊直弼らに条約調印と将軍継嗣を糾弾した行動が安政の大獄の始まりでした。これにはペリー来航の序曲があり、当時、徳川将軍の家定(1824~1858)は虚弱体質で、後継将軍に老中・阿部正弘をはじめ、島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭らは一橋慶喜(徳川慶喜)を推挙(一橋派)し、対して、譜代大名や井伊直弼、徳川家定の生母・本寿院らは紀伊藩の徳川家茂(いえもち)を擁立(南紀派)した結果、血が濃い家茂(いえもち)が13歳で1859年14代将軍に就き、1862年皇妹・和宮との婚儀が上げるも1866年に21歳で死亡しています。
 なお「安政の大獄」は、徳川御三家などの親戚筋と一家来にすぎない井伊家との関係悪化とされ、それを制御出来ないほど落ちぶれた幕府の権威の失墜の表れでもありました。この「稚心を去る」は、大人になり切れない政治、憲法、防衛、18歳成人問題など、今の日本人に問いかけているようです。そして3月18日の「西郷どん」第11話は、次期将軍問題や篤姫を家定の御台所にする工作になるはずです。
 国立市で発見された龍馬の手紙: 大日建設の社長日記

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2018年3月11日 (日)

鹿島(水戸)と鹿児島は関係が深い?

 鹿島に「児」を加えて鹿児島と呼びますが、どんな関係があったのでしょうか。Bakumatu_8
 歴史学者の田中英道先生は、「神武天皇が正にこの鹿島から船出して、鹿児島に向かった船団によって、九州から西国を統一することが出来たことを、神武天皇元年に、宮柱を建てた、という神話に結びついたと考えられるのである」と語っています。先日、拙ブログで「鹿島立ち」を話題にしましたが、防人が九州へ旅立つ決意だけでなく、太古の昔、神々が鹿島から鹿児島に向ったことも意味するはずです。さてドラマ「西郷どん」では、西郷はペリー来航翌年の安政元年(1854)3月6日に、江戸に着くと庭方役(密偵)を命じられ、これにより激動期の表舞台に登場することなりました。西郷の初仕事は、鹿島辺りの常陸国を領地とする水戸藩主・徳川斉昭と後の将軍・徳川慶喜に出会う場面でした。しかし実録では、島津斉彬の茶道方(茶坊主)・樺山三円(資之)の案内で、徳川斉昭の側近・尊皇思想(水戸学)の学者・藤田東湖と会うことのはずです。
 樺山三円も茶坊主として機密を扱う立場は、西郷と似た任務があったようです。
 そして西郷は、東湖の紹介で水戸藩家老・戸田忠敬(蓬軒)、弟の安島帯刀らと親交を深00204203200_め、幕府の機密を知ることができたものの、それが災いして安政の大獄で失脚することになります。水戸藩は、中国のから亡命した儒学者・朱舜水に影響された光圀公以来、尊王思想を掲げ、事実、幕末には、桜田門外の変、坂下門外の変、水戸天狗党の乱などを起こすなど、尊王派の中心地であったことも押さえたいことです。
 そして、3月11日放送の「西郷どん」第10話に、越前福井藩の橋本佐内が登場ですが、西郷は後年、東湖と左内を讃えて「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、共に最も尊敬した人である」と語っています。安政の大地震で圧死した東湖や戸田忠敬、安政の大獄で刑死した左内や切腹した安島帯刀の志しを継ぎ、命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬと縦横無尽の活躍をしています。
 なお、鹿児島には、神武天皇が東征に出航したとされる神武天皇御出航碑もありますので、きっと、西郷をはじめ薩摩藩士も討幕に際して意識したはずですし、また「水薩同盟」がナゼ崩壊したのかも注目したいものです。
 

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2018年3月 8日 (木)

間もなく「鹿島立ち」するという

 4月から起業する方が、明日3月9日の「祭頭祭(さいとうさい)」に合わせて「鹿島・香取神宮」に参拝に行く話を聞きました。Katori_kasima
 数年前は、千葉県成田近くに住む方の息子さんが外国に長期派遣する際も、鹿島・香取に参拝したことを聞いていたのに「鹿島立ち」の慣習を聞き逃していました。「鹿島立ち」とは「すべての始まりの地」とされる茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)と千葉県鹿取市の鹿取神宮の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祈願することだそうです。古神道では自然が神であり、天照大御神は太陽の象徴、大国主命は大地の象徴、そして武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は太陽のパワーで万物を発展、成長させる神、また、経津主神(ふつぬしのかみ)は剣の霊、霊剣「布都御魂剣」の神格化した「」の神と言われています。この、鹿島神宮の武甕槌大神と香取神宮の経津主神が、この国を平定するときに鹿島から出発したことが鹿島立ちの語源だそうです。  
 関東の辺鄙な場所は、かつては天と海の間から日が立つ常陸国と呼ばれ、神宮が2社もあったことからも、太陽が昇る方位が重要と思われます。それに東北が蝦夷の地だった頃は、日本の東端で一番最初に太陽が昇る土地であることからも頷けます。それに、神宮の建物が無かった縄文の昔、更に昔の氷河時代から「東へ東へ」と温かい太陽に向かって日本列島に辿りついた人々は、列島の東の外れで何かを想ったはずです。そして、太陽のパワーと海岸の砂鉄で刀剣を造り、ここから国の平定に向かったことも想像できます。現代でも、成田空港から飛び立った飛行機が、香取・鹿島神宮の上空付近を飛ぶ様子からも「鹿島立ち」を意識して飛行場の位置を決定したのでしょうか。また、武道場の神棚には「鹿島・香取神宮」の御札を祀るそうで、警察の朝稽古では、この神棚に拝礼することで毎日が「鹿島立ち」の決意で仕事に向かう話しも聞きました。上には上があるものです。

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2018年3月 5日 (月)

明治10年3月は「田原坂の戦い」の最中

 今年のNHK大河ドラマは「西郷どん」ですが、「江戸幕府、一夜むな(1867)しく崩れけり」から150年の節目からでしょう。昨日3月4日放送は「江戸のヒImage6ー様」で、島津斉彬に御庭番(密偵)として引き立てられた西郷隆盛がヒー様こと後の将軍・一橋慶喜との接点を描いていました。
 ところで、明治十年(1877年)3月は「田原坂の戦い」の真っ只中でしたが、この戦いが西南の役の分水嶺とされ、敗れた薩軍は南へ南へと敗走することになりました。そして西郷隆盛が鹿児島の城山で自刃の時、「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたでごわす・・・・」と言ったとか言わないとか・・・・。城は三日で落とすと豪語していた西郷軍は、明治10年2月22日~4月14日まで熊本城を包囲し攻撃するも、加藤清正が築いた難攻不落の城を落とすことは出来なかったことや、ダラダラ坂と切り通しが続く天然の要害「田原坂(たばるざか)」の地形は、「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂・・・」と歌われています。特に3月4日~20日までの17日にも及ぶ田原坂の戦いは、日本人同士の最後の壮絶な戦いの舞台とされ、新政府軍(陸軍)を指揮した山縣有朋は苦戦の中、渋々ながら後方支援中の警視庁部隊から剣に覚えの警察官を選抜して警視庁抜刀隊と名付け、百十余名を以って刀だけで斬り込み膠着状態を打破したと言われます。
 ドラマ「西郷どん」での西南の役の場面は、きっと最終回になるはずです。なお、加藤清正公の墓は山形県鶴岡市(庄内藩)にあり、その隣町酒田市には南洲神社と「徳の交わり~南洲翁と臥牛翁」の銅像があることも面白いことです。

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