11、宗教のこと。

2018年9月12日 (水)

日蓮の「四箇の格言」に想う

 今年のお盆も墓参りに行ってきましたが、日蓮宗・北山本門寺(重須(00000251おもす)本門寺)の檀信徒の一人として、日蓮聖人のことを少しは勉強しておきたいと思います。
 まず、日蓮が最高の経典と尊重した「法華経」28巻は、釈尊の晩年、72歳から80歳で入滅するまでの法話とされます。そして、法華経を説く前の、華厳経・阿含経(原始経典)・維摩経・般若経・涅槃経など数々の経典とは矛盾が多いから、「正直に方便を捨てなさい(正直捨方便)」と説いています。よって、法華経こそが釈尊の真の教えとし、これを実践すべきと説いたのが日蓮でした。そこで、立正安国論を著し、当時、臨済宗や曹洞宗の禅宗を重んじていた鎌倉幕府に進言するも、馬鹿にされる如く、伊豆や佐渡に流罪になったり、斬首されそうになりました。
 「四箇の格言」は、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と激しいもので、
 ① 念仏(浄土宗・浄土真宗)は無間地獄に落ちる。
 ② 禅宗(曹洞宗、臨済宗)は仏法を破壊する天魔の教えである。
 ③ 空海が開いた真言宗は国を滅ぼす教えである。
 ④ 唐の鑑真が日本で広めた律宗は国を害する教えである。
 しかし、この四箇格言の通りなら、今頃は、日蓮宗以外は全て滅00sikanokakugen_jpg1びたはずです。
 それに、久遠実(くおんじつじょう)の釈尊は実在の釈迦と区別すべきとか、仏教の教えの力が弱まるという千年王国辺りから、凡人が理解するには限界があります。まぁ、日蓮が四箇の格言に拘ったのは、当時の時代背景もあったはずです。
 飛鳥時代に仏教が伝来しますが、長い期間、高い身分の為の貴族宗教とされ、平安時代でも天台宗の最澄や真言密教の空海も、護摩をたき秘儀の印相を結んで、呪文(マントラ)を唱えれば救われると広まっていました。そして、このような貴族仏教を批判して誕生したのが鎌倉仏教と称される念仏宗や禅宗でしたが、当時、地震、暴風、洪水、疫病、飢饉が頻発したことも日蓮を後押し庶民に支持されたと見られています。
 しかし、日蓮は教団を作る意思はなかったのに、弟子らは、日蓮宗、日蓮正宗、日蓮本宗、真門法華宗などを興し、且つ分裂し、在家団体も、創価学会、顕正会、霊友会、立正佼成会、国柱会などと多彩ですから、教えの真実はどこにあるのやらです。
 四箇格言を語った日蓮は、この現状を何と批判するのか・・・・・
■お釈迦さまのいいたかったこと

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2018年7月 9日 (月)

オウム「遺骨奪還計画」に想う。

 7月6日、死刑執行された松本元死刑囚の遺体は府中市多磨町2丁201879_image1目の「日華斎場」へと運ばれ、その後、一旦は拘置場に戻った後に四女に引き渡されると報じています。そして、遺族間や信者らによる遺骨の奪還のおそれや、釈迦の入滅後に遺骨が仏舎利とされたことと同様になるのではと注目されています。
 遺骨の行方がこんなに注目されることは、昭和23年12月23日、東京裁判で絞首刑となったA級戦犯の7名以来でしょう。東條英機元首相や廣田弘毅両元首相ら7名は、巣鴨刑務所で刑が執行された後に、2台のトラックで横浜の久保山火葬場へ運ばれています。「A級戦犯の遺骨奪還」を計画した三文字正平弁護士は、何としても7人の遺骨を家族へ返そうと計画を練っていました。まず、久保山火葬場に近隣する興禅寺の市川伊雄住職を通じ、火葬場の責任者・飛田美善場長の協力を得ています。そして、火葬直後に飛田場長は密かに7人全員の遺骨を少量ずつながら集めることに成功します。ところが米兵に発見され、遺骨は無残にも粉々にされ、骨捨て場に投げ棄てられました。それでも、三文字弁護士と市川住職は諦めず火葬場へ侵入し、7人分が混ざった遺骨を拾い上げ、翌24年、静岡県熱海市伊豆山の「礼拝山興亜観音」に持0002853_11ち込み弔っています。
 結局、昭和35年に、ようやく、愛知県三河湾国定公園の三ヶ根山山頂に「殉国七士墓」が造営され、興亜観音から分骨しています。その後、昭和54年、昭和天皇皇后両陛下は愛知県下の植樹祭に御出席の際に、三ヶ根山 (さんがねさん)の「グリーンホテル三ヶ根」に宿泊されますが、公務当日の朝、両陛下は殉国七士廟の方角へ向かって20分以上も不動であったとされます。今日の報道から、A級戦犯の汚名を着せられた方々と、同列に語ったことは甚だ失礼と思っております。

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2018年7月 6日 (金)

教祖・麻原彰晃の神格化に想う

 7月6日(金)朝、麻原彰晃こと本名・松本智津夫死刑囚の刑が小0000001p1菅の東京拘置所で執行されたほか、各拘置所に分散されていた元幹部6人の刑も執行されたと報じられました。
 彼らの一連の事件は、平成元年11月4日の坂本弁護士一家殺害事件では三人の死者。平成6年6月27日の松本サリン事件では死者8人・負傷者660人。平成7年の「仮谷清志さん拉致・殺害事件」。更に、平成7年3月20日の地下鉄サリン事件では死者13人・負傷者5.800人以上という前代未聞の無差別テロ事件でした。
 これらの事件で死刑が確定していたオウム真理教元幹部13人のうち7人を、今年3月14日に小菅の東京拘置所から、名古屋・大阪・宮城・広島・福岡の各拘置所へ分散されたことで、執行がKosuge_img_1秒読みに入ったと注目されていました。そして、13日の金曜日の執行があるのかや、共犯者の死刑執行は同日に行う慣例などが注目されていました。金曜日の執行に注目されていた理由は、イエスの受難日は「13日の金曜日」とされるからでしょう。
 ただ、必要以上に意識することは麻原らの神格化を助けることになります。それに、教祖と12人の弟子からは、イエスが処刑の前夜に弟子12人との最後の晩餐を彷彿させます。更に、処刑地が信者らから聖地にされる虞や、遺骨、衣類などの遺品の受け取りは誰になるのかも注目されています。いつの日か信者らに、キリスト処刑のように「エルサレムの聖墳墓教会」や「トリノの聖骸布」、「ロンギヌスの」のような扱いになる虞もあります。00028565_n

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2018年7月 5日 (木)

「常不軽菩薩」はデクノボー?

 宮澤賢治の「雨にも負けず」は、賢治の死後に発見された手帳に綴Makezu_1238られた詩で、平素から自分に言い聞かせていたメモであろうとされます。「雨にも負けず」の後半に「ミンナニデクノボートヨバレ・・・」とありますが、この「デクノボー (木偶の坊)」のモデルが常不軽菩薩(サダーパリブータ)と見られています。
 宮澤賢治の生家は浄土真宗でしたが、賢治は、日蓮が仏教の統一を論じた「天台本覚論」や法華経に魅かれ、特に「法華経常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)」第20に共感していたとされます。常不軽(じょうふきょう)菩薩は、釈迦が悟る前の自分の姿を説いた菩薩とされ、まだ、経典も悟Image7_2りも知らない常不軽菩薩は、「私はあなた方を軽んじません。あなた方は軽んじられることはありません。あなた方は、全て菩薩としての修行を行いなさい。あなた方は、完全に悟った如来になるお方なのですから・・・・」と誰にも気軽に声をかけていたそうです。
 しかし、声を掛けられた人々は、「馬鹿にしているのか」と怒り、罵り、石を投げ棒で打とうしますが、その菩薩は怒ることなく同じことを繰り返すことから、人々から、「常に軽んじない者(常不軽菩薩)」と呼ばれたとされます。
 また、日蓮も法華経の行者として、教えを説く過程で常不軽菩薩に身を重ねていたとされ、事実、松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、竜の口の法難(佐渡流罪)など数々の受難に遭遇しています。そして、「アメニモマケズ」を読み返すと、宮澤賢治も要領が悪くても、常不軽菩薩の姿を愚直に追いかけていたと見られます。尚、仏教を信じようが、信じていなくても、人間尊重の精神が法華経の教えとされます。

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2018年7月 4日 (水)

三橋美智也の「あゝ日蓮」に想う

 7月4日早朝、NHKで浄土宗西迎院副住職 総本山知恩院布教師の光誉祐K_20170704華(こうよゆうか)さんが、お寺やライブハウスで法事(ライブ)活動をしている様子が報じられました。歌にのせて仏法を伝えることは、優しく心に浸透すると好評のようです。
 このことから、随分昔のことですが、三橋美智也が唄う「あゝ日蓮」がラジオから流れたことを思い出しました。その歌をユーチューブで見つけましたのでご紹介したいと思います。分かり易い歌詞と情緒豊かな曲によって、日蓮の概略を知ることが出来るとともに、三橋美智也のシットリした歌声が、日蓮の真っ直ぐな志を歌い上げています。
■三橋美智也 「あゝ日蓮」 藤間哲郎作詞/桜田誠一作曲 1962(S37)

 作詞 藤間哲郎
 作曲 櫻田誠一
時の幕府に 立ち向う
死をば恐れぬ 辻説法
鎌倉小路の 行者こそ
国を憂いし 日蓮の
ああ日蓮の その姿

松葉ヶ谷や 伊豆の海
御難はまたも 龍の口
妙法蓮華 釈迦牟尼仏
奇跡は常に 日蓮に
ああ日蓮に 起りたり

法の力を 信じつつ
見延山上 大修法
国敵蒙古の 大軍を
調伏したる 日蓮を
ああ日蓮を 君知るや

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2018年7月 1日 (日)

「無財の七施(しちせ)」を想う

 バラモン教の僧侶として断食などの苦行から瀕死に陥った釈迦に、スジャータという00000258abc村娘が乳がゆを提供したことは、お布施の気持ちからだったのでしょう。きっと釈迦は、このような自分の体験を弟子たちに語ったはずで、経典「雑宝蔵経」で、地位や財産が無くても心がけ次第で、いつでも簡単にできる布施は、「眼施、和顔施、愛語施、身施、心施、牀座施、房舎施」であると説いています。 
 また、大月や上野原辺りの甲州街道沿いには、「出桁造り(だしけたづくり)」という、軒を深く前面に張り出した家並みが多く見られます。これは、旅が徒歩の時代に旅人に雨宿りの場所として提供した房舎施(ぼうしゃせ)の名残りと見られています。000029513_2
  さて、先日、ある公園で働いていた庭師が遅くなっても帰宅しないので声をかけると、「仕事中に携帯を無くした。午後3時ころに紛失に気付き、何度も探している。」と困り果てた様子です。半ば諦め顔ですが、「もう一回一緒に探しましょう」と声をかけ、携帯の番号を打ち込み、庭師の携帯のベルを鳴らしながら探すことにしたのです。そして探すこと約10分で、草むらの中から「ピッピッピッピッ・・」と聞こえ早目に発見することが出来ました。庭師の方も「丁度30回呼び出し記録がのこっています。関係者の連絡先が入っているので、無いと仕事に支障が出るところでした」と感謝していました。
 このようなことは、「無財の七施」の「身施(しんせ)」や「心施(しんせ)」に該当していると思われ、相手の立場になって、短時間ながら身体一つで動いただけであり、恩着せがましい気持はけっして御座いません。
1. 眼施(がんせ)~常に温かく優しい眼差しを施すこと
2. 和顔施(わがんせ)~いつもにこやかに笑顔で接すること
3. 言辞施(ごんじせ)~優しく時には厳しく叱る愛情のこもった言葉
4. 身施(しんせ)~自分の身体を使い奉仕すること
5..心施(しんせ)~気配り、思いやりの心を持ち、相手の立場になること
6. 床座施(しょうざせ)~座席や場所、地位を譲ること
7. 房舎施(ぼうしゃせ)~家や軒先を提供すること

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2018年6月20日 (水)

「日蓮」のこと

  最近、宗教関連の記事が多いので、宗教に熱心な人と思われがちですが、実際は、実00204203200_家が富士宮市の日蓮宗・北山本門寺に隣接し、ご先祖が代々お世話になっている程度の檀信徒です。よって、日蓮のことは「立正安国論」「四箇格言」「四大法難」なども項目を知る程度の知識ですから、少しは内容も勉強したいものです。まず、日蓮(1222年2月16日生)は、安房の国(千葉県鴨川市)小湊で誕生し、1282年10月13日、日蓮に帰依していた池上宗仲公の館、後の池上本門寺(大田区)内の大坊本行寺で61歳の波乱の生涯を閉じています。
 幼少時から聡明だった日蓮は、11歳で天台宗清澄寺に入り、
 16歳で出家すると比叡山や高野山、奈良などで仏法を学び、
 32歳で仏教界の腐敗を痛感し、釈迦の教えは法華経と確信して清澄に戻り、
 32歳で旭ケ森(千葉県清澄寺)で初めて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え、
 33歳で鎌倉の街頭で初めて辻説法を行い、
 39歳のとき、折から相次いだ天災や飢饉、疫病、蒙古襲来などから、世の混乱を憂い『立正安国論』を唱え、鎌倉幕府に正しい仏法の信仰による安国を諫言します。
 しかし、日蓮の教えは過激で排他的な面が強く、「伊豆法難」、「小松原法難」、「松葉ヶ谷法難」、「龍ノ口法難」等と次々と災いが降りかかりますが、「南無妙法蓮華経」の七字を唱え跳ね返しています。とどめは、蒙古襲来が現実となり、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)という未曾有の国難が勃発しますが、これも日蓮の祈りで神風を呼び起こして、尽く撃退したと日蓮信者には信じられているそうです。   
 そして、弘安の役(1281年)の翌年、病が悪化した日蓮は、温泉静養の為に身延山から「常陸の湯」に向かう途中に池上で亡くなりますが、ここで、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持を本弟子(六老僧)と定めると共に、13歳の経一磨(きょういちまろ、日像)を枕元に呼び寄せ、自らがやり残した京都布教を託しています。なお、「常陸の湯」に向かったのは、日蓮の有力な信徒であった波木井実氏が建立した日立の妙徳寺とされ、領地に実氏が整備した常陸の湯(隠井の湯)があったからとされます。
   ただ、残念ながら「常陸の湯」は2010年に廃業しています。
 結びとして、「立正安国論」で語られる国を想う思想 (ナチョナリズム)は、国家主義や右翼思想と結びつき易く、後に、維新の志士をはじめ、北一輝(2.26事件)、鷲谷日賢(霊媒師)、井上日昭(血盟団、五・一五事件)、大川周明(昭和維新、五・一五事件) 、石原莞爾(在家団体「国柱会」)、妹尾義郎(社会主義者)、宮沢賢治らにも強い影響を与えたとされます。

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2018年6月10日 (日)

袈裟を身に付ける精神は何処に

 袈裟のルーツは天竺(インド)で死体をくるんだ布とされ、そKesa_imageれも、最下層身分の遺体を包んでいた糞掃衣(ふんぞうえ)と言うボロ布だそうです。由来は、釈迦族の王子・釈尊は、バラモン教下のカースト制度で最下級の僧侶として出家しますが、このボロ布を洗い縫い直して着たとされます。これは、厳しい修行に入るには、頭をまるめて袈裟で身を包むことで、身を飾る一切を捨てる覚悟を表現したのでしょう。そして、鉢を携えて施を受ける托鉢で最低生活から、貧困や飢餓、差別、迫害に喘いだ民と同じ目線で、生・老・病・死(しょうろうびょうし)など、人間の苦しみに四苦八苦しながら厳しい道を歩んだはずです。
  最近、友人が古くから付き合いのある名高い寺院の僧侶数名とゴルフに行く機会があったそうです。ところが、その僧侶たちのベンツやセルシオなどの高級車や一級品のゴルフセットに驚くとともに、食事のときの会話が、次の法事・法要・葬儀、最近のお布施・戒名の額などの話題が中心だったことに更に驚いたそうです。また、別の知人の奥さんの実家は大きな知られた神社だそうで、結婚してからも、お守りや御札などを造るアルバイトを長年やっており、「こんな作り方でご利益あるの・・・」と夫婦で語りながらも随分稼いだそうです。
 このように、近年は何を勘違いしたのか、大寺院や神社に勤めて、高価な袈裟や神職の装束に身を包み、仏像・宝物などに価値を求める風潮が目につきます。中には、寒村地で檀家や氏子等の減少から質素な生活を強いられる地域も聞きますが、有名どころの神社・仏閣の殆どは観光地化され、参拝料金や御払いの他、お守り、御朱印などは飛ぶように売れ、それも無税と言われます。きっと、このような神社や寺院で救われているのは民衆ではなく、そこの僧侶や神官、職員ら関係者、また近所の売店や飲食店、旅館、駐車場、或いは、寄付を受けた自治体だけに見えます・・・・
仏教の本質 哲学者「中村元
https://youtu.be/NWZtkxP3eGg

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2018年6月 2日 (土)

宗教や思想の誕生は戦いのためか

 約20万年前にアフリカで進化した「ヒト(ホモ・サピエンス)」は、約1000ing0万年前に食糧や住みやすい環境を求めてアフリカからユーラシア大陸などに移動を開始したと推測されています。その「ヒト」は移動過程で、狂暴な猛獣やライバルの旧人・ネアンデルタール人と生き残りをかけて、戦う場面が多かったはずです。
 結果的に、頭脳は同等と推測されるのに、体力的に劣っていたヒトが、約2万年前にネアンデルタール人や猛獣に勝利し、地球上で最強の生物として君臨することになったと言われています。なぜ弱い方が、生存競争に勝利したかと推測する理由の一つに、ヒトは集団を形成し戦いに臨むため原始宗教の誕生があったことが、 洞窟等の発掘調査や環状列石などの古代遺跡からも分析されています。そして、旧人を絶滅させた後のヒトは、今度はヒト同士の縄張り争い、他民族の征服戦争が長年続いたはずです。その部族や民族には、それぞれの氏神のような神仏を祀っていたはずです。ところが、紀元前500年頃に地中海沿岸辺りに、ローマ帝国などの巨大な帝国が誕生すると、氏神だけでは民をまとめることが出来ないことに気付き、氏神も超越した古代ペルシアのゾロアスター教をはじめとする組織宗教(ユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教等)が誕生する土壌ができたとされます。Photo
 さて、なだいなだ著の「民族という名の宗教」、副題に「人をまとめる原理・排除する原理」(岩波新書)とある本を読んでいます。著者は、共産主義や社会主義の信奉者のようであり、組織宗教より更に大きな集団を形成するには、イデオロギーの果たす役割を評価しています。つまり、『共産主義もひとつの宗教』として、思想統一の道具であると見ています。この著者の思想的背景は別にして、ヒトは肉体的凶器を殆ど持たない弱い体質なのに、「集団を武器」として戦うには宗教が必要だったと述べていることに賛同しています。
 つまり、宗教や思想は「人をまとめる原理」も「排除する原理」も自動的に働くものであり、これが、いくらヒト社会が、科学や医学、文化が発展し、生活レベルが向上しても戦争が無くならない理由なのでしょう・・・・・

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2018年5月22日 (火)

キリシタン大名は奴隷貿易商

 今も絶えない世界の紛争の殆どは、欧米先進国の思想や宗教などの価値観の押しつけ、00002015021421562836d_2領土拡大、資源権益の確保と言われ、その先兵となる宣教師は宗教の衣を被ったスパイと言われています。日本の歴史教科書などでは、豊臣秀吉や徳川家康(江戸幕府)が「キリスト教徒を」「踏み絵をさせた」など宗教弾圧をしたと教えていますが、殆どの宗教に寛容だった日本が、単に布教に来ただけの宣教師や信者を理由もなく弾圧するはずがありません。
 弱肉強食の戦国の世にあって、豊後国の大友宗麟、肥後宇土の小西行長、大阪高槻城の高山右近らに代表されるキリシタン大名を、高い倫理観の持ち主でロマンある人物かのように、歴史小説やドラマなどの多くが美化して伝えています。しかし、当時の宣教師は、まず大名に南蛮(ポルトガル)貿易による利益が大きいことを取引にして入信させてから、家臣や領民を改宗させる手法をとり、日本では入手困難な火薬の材料、硝石、武器などの密輸を行00000048858911_2う一方で、日本人女性らの大規模な奴隷輸出で暴利を貪っていたそうです。
 15世紀当時、西欧の白人国家では、スペインとポルトガルが二大列強として世界を二分し、植民地政策が始まっていました。アジアでは、ポルトガルはインドやマカオを、またスペインはフィリピンを一早く植民地にして、更に植民地拡大の野望から、まず宣教師を密入国させて布教+スパイ活動を行いつつ、虎視眈々と日本侵略を企てていました。ところが、秀吉が九州の島津征伐のおり、長崎のキリシタン大名・大村純忠の領内で、キリスタンによる神社・仏閣の破壊や多くの日本娘らを奴隷として世界中に売却するなどの商売をしていたことを知り愕然とし、バテレン追放令を発令、宣教師の国外追放を令じ長崎を没収したのでした。Image2
 また徳川幕府は、1637年(寛永14)の「島原の乱」を12万の大軍をもって鎮圧してキリシタン王国の夢を断ち切っています。これらキリシタン大名によって50万人以上の日本娘を家畜のように世界中に売却したという記録もあります。何もアフリカの黒人だけが奴隷にされたのではなかったのです。
 この悲惨な歴史を、まるで宣教師や信者が被害者のような教え方をしているのが今の日本です。それに、秀吉や家康が禁教という強気の対応をしたことや、アッいう間に火縄銃を大量に造る高い能力を恐れたことが、日本が植民地にされなかった大きな理由とみられています。 

Photo
 徳富蘇峰の『近世日本国民史 豊臣氏時代.乙篇』に、レオン・パゼーが著した『日本耶蘇教史』の付録に載せた文書が引用されています。この文章は、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されています。
 「ポルトガル人の商人はもちろん、その水夫、厨奴らの賎しき者までも、日本人を奴隷として買収し、携え去った。而してImage3その奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼らを無暗に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に籠居(ろうきょ)せしめ。而してその持ち主らが一たび病に罹(かか)るや――持ち主の中には、ポルトガル人に使役せらるる黒奴(こくど:黒人奴隷)も少なくなかった――これらの奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食糧さえも、与えざることがしばしばあったためである。この水夫らは、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いを逞しうして、あえて憚(はばか)るところなく、そのマカオ帰港の船中には、少女らを自個の船室に連れ込む者さえあった。予は今ここにポルトガル人らが、異教国におけるその小男、小女を増殖――私生児濫造――したる、放恣、狂蕩の行動と、これがために異教徒をして、呆然たらしめたることを説くを、見合わすべし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/214

南蛮貿易と日本人奴隷 〜日本人女性50人で火薬1樽〜
【CGS ねずさん 日本の歴史 7-1】
 https://youtu.be/RS5Io8aQfWw.

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