宗教のこと。

2019年2月10日 (日)

「MAGI-天正遣欧少年使節」を鑑賞して

 「MAGI -天正遣欧少年使節」は史実に沿って制作しており、当時、欧州の世界支配の野望と宣教師らの蛮行に鋭く迫っています。Photo
 映画「沈黙-サイレンス」も、「潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録理由でも、日本が禁教政策中に秘かに信仰を継続したなどの美談ばかりを強調して真実を伝えていませんでした。それが、今年1月17日からAmazon Prime Videoで配信中の歴史ドラマ『MAGI -天正遣欧少年使節』は概ね史実に沿って制作していると見て鑑賞しました。
 1549年、イエズス会のザビエルが、鹿児島に漂着して約2年半の日本滞在で洗礼者は千名に及ばず、自信を喪失して帰国しています。ザビエル来日から30年後の1579年に、同じイエズス会のアジア布教の巡察使・ヴァリニャーノが島原半島の口ノ津港に辿り着きます。ザビエルから日本での布教の難しさを聞いていたと思われ、布教を進める秘策として、キリシタン大名に働きかけ、ローマ教皇に日本から少年使節を送ることを思い付きます。そして、選ばれた4人は、
伊東マンショ(主席正使)15歳で豊後大友宗麟の名代(帰国後・司祭に叙階)
千々石(ちぢわ)ミゲル(正使)14歳で大村純忠の名代(帰国後・棄教)
中浦ジュリアン(副使)15歳で大村藩(帰国後・司祭に叙階されるが穴づりの刑)
原マルチノ(副使)13歳で大村藩(印刷機を持ち帰りキリシタン関連を出版)
 遣欧目的はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両国王に布教の援助を申し出る事。
 更に、少年達にヨーロッパのキリスト教世界の偉大さを見せて、日本での布教に役立てて日本をキリスト教国にして、あわよくば植民地化することでした。しかし、少年らが世界各地で見た光景は、口では「イエスの愛・・」と言いつつ、多数の日本人や黒人奴隷の悲惨な姿、人種差別、異教徒の弾圧等々の矛盾した世界でした。 ミゲルを名乗った有馬晴信の甥の清左、マンショを名乗った大友宗麟の甥の祐益らは
 「われらと同じ日本人がどこへ行ってもたくさん目につく。また子まで首を縄で繋がれて我々を見て、哀れみを訴える眼差しは辛くてならぬ・・・。肌の白いみめよき日本の娘らが、秘所をまるだしに繋がれ、弄ばれているのは、奴隷らの国にまで、日本の女が転売されて行くのを正視できるものではない。我々の見た範囲で、ヨーロッパ各地で50万と言うことはなかろう。ポルトガル人の教会や師父が硝石と交換し、証文をつけて、インドやアフリカにまで売っている。いかがなものだろう。」と記録しています。
 8年5か月余に及ぶ長旅を終えて、1590年(天正18年)7月、長崎に帰国すると、一行を送り出した、織田信長、大村純忠、大友宗麟らは死去。最悪は秀吉のバテレン追放令が待っていました。よって、四人は遣欧の体験を生かす機会を失いますが、キリスト教世界の矛盾の数々を証言して日本の植民地化を防ぐことに貢献したはずです。きっと、目から鱗が落ちるドラマです。このドラマを鑑賞するには検索エンジンに「Amazon.co.jp: MAGI 天正遣欧少年使節 シーズン1を観るPrime Video」とコピー入力すれば可能と思います。
MAGI -天正遣欧少年使節https://www.amazon.co.jp/MAGI-%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E5%B0%91%E5%B9%B4%E4%BD%BF%E7%AF%80-%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%B31-4K-UHD/dp/B07MS5P6C9

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2019年2月 5日 (火)

2月5日は長崎26聖人殉教の日

 昔から宗教に寛容な日本で、こんな処刑を行うには余程の事があったはずです。26_martyrs_museum
 今日2月5日は、今から422年前の1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令で26人のカトリック信者が長崎の西坂で磔の刑に処された日です。
 古くから仏教・儒教・景教等を受け入れて、宗教に比較的寛容な日本において、なぜ秀吉は、キリスト教信者や宣教師らを磔にしたのかを考察しています。さて、15世紀半ばから17世紀半ばの大航海時代の欧州列強は有色人種の国々に、まずキリスト教宣教師を送り込み信者を増やして、その原住民を味方に付けて国情を探り、或いは内乱を起こして、次に軍隊を引き入れるという外患誘致の手法で次々と植民地にしていました。
 国際情勢に疎かった当時の日本にも、鉄砲伝来から6年後の1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、以後2年3か月に及んだ布教活動を行っています。それに続いて宣教師たちが次々と上陸し、神の教えを説いて1590年には約24万人の信者を獲得したとされます。そして、布教を認めた九州や四国方面では、高山右近、大友宗瞬、大村純忠、黒田孝高らキリシタン大名が勢力を伸ばしていましたが、その蔭には、宣教師たちによるスペインやポルトガルとの南蛮貿易がありました。
 戦国大名が欲しかったのは戦いの勝敗を決定づける鉄砲や火薬など最新兵器の入手で、この交換には、女50人と硝石1樽が相場だったとされ、日本人数万人を奴隷船で海外で売り飛ばしていたのでした。
 この白人の野望に一早く気付いたのが全国統一目前の豊臣秀吉であり、1587年、「神国において邪法を授けるとは、まったくけしからん」と伴天連追放令を発して、宣教師に日本退去を命じています。この追放令から9年後の、1596年10月土佐国に漂着したサン=フェリペ号の乗組員が、「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」と、日本を恫喝するような発言に秀吉は激怒し、1596年12月8日に再び禁教令を公布し、大阪と京都でフランシスコ会士とイエズス会士、更に信者たちを捕らえて長崎に護送され磔の刑に処しています。このとき処刑されたのは、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人でした。
 この「伴天連追放令」は、日本が白人からの植民地化を免れた第一歩であって、豊臣秀吉の最大の功績だったはずです。

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2019年1月13日 (日)

役目を終えた?「常夜燈」に想う

 甲州街道に面した国立市谷保6218の「南養寺」入口には「常夜燈」があります。Image
 まるで役目を終えたような「常夜燈」ですが、それでも「火の用心」と同時に「秋葉山から火事」の戒めや 明治天皇も後に「一生の心残り」と悔やんだという「廃仏毀釈」、勘違いから生まれた秋葉原の地名などを連想することがあります。「常夜燈」は「秋葉灯」とも呼ばれ、現代で言うなら「街路灯」や「防犯灯」のような役割りがあったはずです。電力インフラが無く、灯りの少なかった明治・大正の頃までは、夜道の道標として、旅人や村人の暮らしに役立っていたはずです。
 この発祥地は静岡県浜松市の秋葉山とされ、奈良東大寺の大仏建造に尽力したり高尾山薬王院を開いた行基(668~749年)が718年に開山しています。更に、平安時代に三尺坊という修験者が現れ火災を除く神通力を得たとして「火伏の神」として祀られています。この謂れから、人を戒め人の範たる立場の人が自ら過ちを犯してしまうことの喩えとして、「秋葉山から火事」のことわざが生まれています。
 また秋葉山は、神道の「秋葉神社」と仏教の「秋葉寺」に分かれていて、「秋葉寺」は廃仏毀釈されるまで「秋葉神社」を管理監督する別当寺でしたから大変でした。
つまり、明治新政府が断交した「廃仏毀釈」「神仏分離」によって、神道と仏教の立場が逆転し、国宝級の仏像や寺院の破壊、経典の焼却、僧侶は髪を伸ばして還俗(げんぞく)したり、神道の神官に転業したりと宗教界や民衆は大混乱したのでした。
 その「廃仏毀釈」や「神仏分離」が進む明治2年に東京で大火事が発生します。0000002019_618
 明治天皇は焼け野原となった現在の秋葉原駅辺りに、火災除けの緩衝地を設けて「鎮火社」を建立しています。しかし、東京市民は「鎮火社」を秋葉信仰の秋葉三尺坊大権現を祀ったものと勘違いして「秋葉(あきは)の原」と呼んだことで「秋葉原(あきはばら)」の地名になったのでした。後に、秋葉原駅を建設する際に「鎮火社」は上野駅近くの台東区松が谷3-10-7.に移転し、晴れて「秋葉神社」として火難守護、無病息災の神社として信仰を集めています。
 なお、昭和18年に現実に発生した「秋葉山の大火」では、本家本元の「秋葉神社」も全焼し、正に「秋葉山から火事」を体験しています。また、臨済宗建長寺派南養寺入口の「常夜燈」は甲州街道沿いの油家(原田家)前にあったものを甲州街道の拡張工事の際に移転したそうです。

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2018年9月12日 (水)

日蓮の「四箇の格言」に想う

 今年のお盆も墓参りに行ってきましたが、日蓮宗・北山本門寺(重須(00000251おもす)本門寺)の檀信徒の一人として、日蓮聖人のことを少しは勉強しておきたいと思います。
 まず、日蓮が最高の経典と尊重した「法華経」28巻は、釈尊の晩年、72歳から80歳で入滅するまでの法話とされます。そして、法華経を説く前の、華厳経・阿含経(原始経典)・維摩経・般若経・涅槃経など数々の経典とは矛盾が多いから、「正直に方便を捨てなさい(正直捨方便)」と説いています。よって、法華経こそが釈尊の真の教えとし、これを実践すべきと説いたのが日蓮でした。そこで、立正安国論を著し、当時、臨済宗や曹洞宗の禅宗を重んじていた鎌倉幕府に進言するも、馬鹿にされる如く、伊豆や佐渡に流罪になったり、斬首されそうになりました。
 「四箇の格言」は、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と激しいもので、
 ① 念仏(浄土宗・浄土真宗)は無間地獄に落ちる。
 ② 禅宗(曹洞宗、臨済宗)は仏法を破壊する天魔の教えである。
 ③ 空海が開いた真言宗は国を滅ぼす教えである。
 ④ 唐の鑑真が日本で広めた律宗は国を害する教えである。
 しかし、この四箇格言の通りなら、今頃は、日蓮宗以外は全て滅00sikanokakugen_jpg1びたはずです。
 それに、久遠実(くおんじつじょう)の釈尊は実在の釈迦と区別すべきとか、仏教の教えの力が弱まるという千年王国辺りから、凡人が理解するには限界があります。まぁ、日蓮が四箇の格言に拘ったのは、当時の時代背景もあったはずです。
 飛鳥時代に仏教が伝来しますが、長い期間、高い身分の為の貴族宗教とされ、平安時代でも天台宗の最澄や真言密教の空海も、護摩をたき秘儀の印相を結んで、呪文(マントラ)を唱えれば救われると広まっていました。そして、このような貴族仏教を批判して誕生したのが鎌倉仏教と称される念仏宗や禅宗でしたが、当時、地震、暴風、洪水、疫病、飢饉が頻発したことも日蓮を後押し庶民に支持されたと見られています。
 しかし、日蓮は教団を作る意思はなかったのに、弟子らは、日蓮宗、日蓮正宗、日蓮本宗、真門法華宗などを興し、且つ分裂し、在家団体も、創価学会、顕正会、霊友会、立正佼成会、国柱会などと多彩ですから、教えの真実はどこにあるのやらです。
 四箇格言を語った日蓮は、この現状を何と批判するのか・・・・・
■お釈迦さまのいいたかったこと

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2018年7月 9日 (月)

オウム「遺骨奪還計画」に想う。

 7月6日、死刑執行された松本元死刑囚の遺体は府中市多磨町2丁201879_image1目の「日華斎場」へと運ばれ、その後、一旦は拘置場に戻った後に四女に引き渡されると報じています。そして、遺族間や信者らによる遺骨の奪還のおそれや、釈迦の入滅後に遺骨が仏舎利とされたことと同様になるのではと注目されています。
 遺骨の行方がこんなに注目されることは、昭和23年12月23日、東京裁判で絞首刑となったA級戦犯の7名以来でしょう。東條英機元首相や廣田弘毅両元首相ら7名は、巣鴨刑務所で刑が執行された後に、2台のトラックで横浜の久保山火葬場へ運ばれています。「A級戦犯の遺骨奪還」を計画した三文字正平弁護士は、何としても7人の遺骨を家族へ返そうと計画を練っていました。まず、久保山火葬場に近隣する興禅寺の市川伊雄住職を通じ、火葬場の責任者・飛田美善場長の協力を得ています。そして、火葬直後に飛田場長は密かに7人全員の遺骨を少量ずつながら集めることに成功します。ところが米兵に発見され、遺骨は無残にも粉々にされ、骨捨て場に投げ棄てられました。それでも、三文字弁護士と市川住職は諦めず火葬場へ侵入し、7人分が混ざった遺骨を拾い上げ、翌24年、静岡県熱海市伊豆山の「礼拝山興亜観音」に持0002853_11ち込み弔っています。
 結局、昭和35年に、ようやく、愛知県三河湾国定公園の三ヶ根山山頂に「殉国七士墓」が造営され、興亜観音から分骨しています。その後、昭和54年、昭和天皇皇后両陛下は愛知県下の植樹祭に御出席の際に、三ヶ根山 (さんがねさん)の「グリーンホテル三ヶ根」に宿泊されますが、公務当日の朝、両陛下は殉国七士廟の方角へ向かって20分以上も不動であったとされます。今日の報道から、A級戦犯の汚名を着せられた方々と、同列に語ったことは甚だ失礼と思っております。

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2018年7月 6日 (金)

教祖・麻原彰晃の神格化に想う

 7月6日(金)朝、麻原彰晃こと本名・松本智津夫死刑囚の刑が小0000001p1菅の東京拘置所で執行されたほか、各拘置所に分散されていた元幹部6人の刑も執行されたと報じられました。
 彼らの一連の事件は、平成元年11月4日の坂本弁護士一家殺害事件では三人の死者。平成6年6月27日の松本サリン事件では死者8人・負傷者660人。平成7年の「仮谷清志さん拉致・殺害事件」。更に、平成7年3月20日の地下鉄サリン事件では死者13人・負傷者5.800人以上という前代未聞の無差別テロ事件でした。
 これらの事件で死刑が確定していたオウム真理教元幹部13人のうち7人を、今年3月14日に小菅の東京拘置所から、名古屋・大阪・宮城・広島・福岡の各拘置所へ分散されたことで、執行がKosuge_img_1秒読みに入ったと注目されていました。そして、13日の金曜日の執行があるのかや、共犯者の死刑執行は同日に行う慣例などが注目されていました。金曜日の執行に注目されていた理由は、イエスの受難日は「13日の金曜日」とされるからでしょう。
 ただ、必要以上に意識することは麻原らの神格化を助けることになります。それに、教祖と12人の弟子からは、イエスが処刑の前夜に弟子12人との最後の晩餐を彷彿させます。更に、処刑地が信者らから聖地にされる虞や、遺骨、衣類などの遺品の受け取りは誰になるのかも注目されています。いつの日か信者らに、キリスト処刑のように「エルサレムの聖墳墓教会」や「トリノの聖骸布」、「ロンギヌスの」のような扱いになる虞もあります。00028565_n

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2018年7月 5日 (木)

「常不軽菩薩」はデクノボー?

 宮澤賢治の「雨にも負けず」は、賢治の死後に発見された手帳に綴Makezu_1238られた詩で、平素から自分に言い聞かせていたメモであろうとされます。「雨にも負けず」の後半に「ミンナニデクノボートヨバレ・・・」とありますが、この「デクノボー (木偶の坊)」のモデルが常不軽菩薩(サダーパリブータ)と見られています。
 宮澤賢治の生家は浄土真宗でしたが、賢治は、日蓮が仏教の統一を論じた「天台本覚論」や法華経に魅かれ、特に「法華経常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)」第20に共感していたとされます。常不軽(じょうふきょう)菩薩は、釈迦が悟る前の自分の姿を説いた菩薩とされ、まだ、経典も悟Image7_2りも知らない常不軽菩薩は、「私はあなた方を軽んじません。あなた方は軽んじられることはありません。あなた方は、全て菩薩としての修行を行いなさい。あなた方は、完全に悟った如来になるお方なのですから・・・・」と誰にも気軽に声をかけていたそうです。
 しかし、声を掛けられた人々は、「馬鹿にしているのか」と怒り、罵り、石を投げ棒で打とうしますが、その菩薩は怒ることなく同じことを繰り返すことから、人々から、「常に軽んじない者(常不軽菩薩)」と呼ばれたとされます。
 また、日蓮も法華経の行者として、教えを説く過程で常不軽菩薩に身を重ねていたとされ、事実、松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、竜の口の法難(佐渡流罪)など数々の受難に遭遇しています。そして、「アメニモマケズ」を読み返すと、宮澤賢治も要領が悪くても、常不軽菩薩の姿を愚直に追いかけていたと見られます。尚、仏教を信じようが、信じていなくても、人間尊重の精神が法華経の教えとされます。

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2018年7月 4日 (水)

三橋美智也の「あゝ日蓮」に想う

 7月4日早朝、NHKで浄土宗西迎院副住職 総本山知恩院布教師の光誉祐K_20170704華(こうよゆうか)さんが、お寺やライブハウスで法事(ライブ)活動をしている様子が報じられました。歌にのせて仏法を伝えることは、優しく心に浸透すると好評のようです。
 このことから、随分昔のことですが、三橋美智也が唄う「あゝ日蓮」がラジオから流れたことを思い出しました。その歌をユーチューブで見つけましたのでご紹介したいと思います。分かり易い歌詞と情緒豊かな曲によって、日蓮の概略を知ることが出来るとともに、三橋美智也のシットリした歌声が、日蓮の真っ直ぐな志を歌い上げています。
■三橋美智也 「あゝ日蓮」 藤間哲郎作詞/桜田誠一作曲 1962(S37)

 作詞 藤間哲郎
 作曲 櫻田誠一
時の幕府に 立ち向う
死をば恐れぬ 辻説法
鎌倉小路の 行者こそ
国を憂いし 日蓮の
ああ日蓮の その姿

松葉ヶ谷や 伊豆の海
御難はまたも 龍の口
妙法蓮華 釈迦牟尼仏
奇跡は常に 日蓮に
ああ日蓮に 起りたり

法の力を 信じつつ
見延山上 大修法
国敵蒙古の 大軍を
調伏したる 日蓮を
ああ日蓮を 君知るや

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2018年7月 1日 (日)

「無財の七施(しちせ)」を想う

 バラモン教の僧侶として断食などの苦行から瀕死に陥った釈迦に、スジャータという00000258abc村娘が乳がゆを提供したことは、お布施の気持ちからだったのでしょう。きっと釈迦は、このような自分の体験を弟子たちに語ったはずで、経典「雑宝蔵経」で、地位や財産が無くても心がけ次第で、いつでも簡単にできる布施は、「眼施、和顔施、愛語施、身施、心施、牀座施、房舎施」であると説いています。 
 また、大月や上野原辺りの甲州街道沿いには、「出桁造り(だしけたづくり)」という、軒を深く前面に張り出した家並みが多く見られます。これは、旅が徒歩の時代に旅人に雨宿りの場所として提供した房舎施(ぼうしゃせ)の名残りと見られています。000029513_2
  さて、先日、ある公園で働いていた庭師が遅くなっても帰宅しないので声をかけると、「仕事中に携帯を無くした。午後3時ころに紛失に気付き、何度も探している。」と困り果てた様子です。半ば諦め顔ですが、「もう一回一緒に探しましょう」と声をかけ、携帯の番号を打ち込み、庭師の携帯のベルを鳴らしながら探すことにしたのです。そして探すこと約10分で、草むらの中から「ピッピッピッピッ・・」と聞こえ早目に発見することが出来ました。庭師の方も「丁度30回呼び出し記録がのこっています。関係者の連絡先が入っているので、無いと仕事に支障が出るところでした」と感謝していました。
 このようなことは、「無財の七施」の「身施(しんせ)」や「心施(しんせ)」に該当していると思われ、相手の立場になって、短時間ながら身体一つで動いただけであり、恩着せがましい気持はけっして御座いません。
1. 眼施(がんせ)~常に温かく優しい眼差しを施すこと
2. 和顔施(わがんせ)~いつもにこやかに笑顔で接すること
3. 言辞施(ごんじせ)~優しく時には厳しく叱る愛情のこもった言葉
4. 身施(しんせ)~自分の身体を使い奉仕すること
5..心施(しんせ)~気配り、思いやりの心を持ち、相手の立場になること
6. 床座施(しょうざせ)~座席や場所、地位を譲ること
7. 房舎施(ぼうしゃせ)~家や軒先を提供すること

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2018年6月20日 (水)

「日蓮」のこと

  最近、宗教関連の記事が多いので、宗教に熱心な人と思われがちですが、実際は、実00204203200_家が富士宮市の日蓮宗・北山本門寺に隣接し、ご先祖が代々お世話になっている程度の檀信徒です。よって、日蓮のことは「立正安国論」「四箇格言」「四大法難」なども項目を知る程度の知識ですから、少しは内容も勉強したいものです。まず、日蓮(1222年2月16日生)は、安房の国(千葉県鴨川市)小湊で誕生し、1282年10月13日、日蓮に帰依していた池上宗仲公の館、後の池上本門寺(大田区)内の大坊本行寺で61歳の波乱の生涯を閉じています。
 幼少時から聡明だった日蓮は、11歳で天台宗清澄寺に入り、
 16歳で出家すると比叡山や高野山、奈良などで仏法を学び、
 32歳で仏教界の腐敗を痛感し、釈迦の教えは法華経と確信して清澄に戻り、
 32歳で旭ケ森(千葉県清澄寺)で初めて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え、
 33歳で鎌倉の街頭で初めて辻説法を行い、
 39歳のとき、折から相次いだ天災や飢饉、疫病、蒙古襲来などから、世の混乱を憂い『立正安国論』を唱え、鎌倉幕府に正しい仏法の信仰による安国を諫言します。
 しかし、日蓮の教えは過激で排他的な面が強く、「伊豆法難」、「小松原法難」、「松葉ヶ谷法難」、「龍ノ口法難」等と次々と災いが降りかかりますが、「南無妙法蓮華経」の七字を唱え跳ね返しています。とどめは、蒙古襲来が現実となり、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)という未曾有の国難が勃発しますが、これも日蓮の祈りで神風を呼び起こして、尽く撃退したと日蓮信者には信じられているそうです。   
 そして、弘安の役(1281年)の翌年、病が悪化した日蓮は、温泉静養の為に身延山から「常陸の湯」に向かう途中に池上で亡くなりますが、ここで、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持を本弟子(六老僧)と定めると共に、13歳の経一磨(きょういちまろ、日像)を枕元に呼び寄せ、自らがやり残した京都布教を託しています。なお、「常陸の湯」に向かったのは、日蓮の有力な信徒であった波木井実氏が建立した日立の妙徳寺とされ、領地に実氏が整備した常陸の湯(隠井の湯)があったからとされます。
   ただ、残念ながら「常陸の湯」は2010年に廃業しています。
 結びとして、「立正安国論」で語られる国を想う思想 (ナチョナリズム)は、国家主義や右翼思想と結びつき易く、後に、維新の志士をはじめ、北一輝(2.26事件)、鷲谷日賢(霊媒師)、井上日昭(血盟団、五・一五事件)、大川周明(昭和維新、五・一五事件) 、石原莞爾(在家団体「国柱会」)、妹尾義郎(社会主義者)、宮沢賢治らにも強い影響を与えたとされます。

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