個人的に関心を持った話し

2019年2月17日 (日)

紀元前に「史記」を記した司馬遷のこと

 同時期の日本は有史以前の弥生時代であり、登呂、吉野ヶ里、妻木晩田、纏向、扇谷、 荒神谷など遺跡は多く発見されるのに、具体的人物は浮かんでいません。
 さて、高校当時に漢文で『風蕭蕭兮易水寒・壮士一去兮不復還』と習っています。
 風(かぜ)蕭蕭(ひょうひょう)として 易水(えきすい)寒く 壮士一たび去りて復た還らずImage2
 読みは「かぜしょうしょうとして えきすいさむく そうしひとたびさりて  またかえらず」と覚えたのに、たった一行しか記憶していません。これは、紀元前3世紀の史実として、中国全土を統一した秦の始皇帝暗殺に挑んだ刺客・荊軻(けいか)のことで、司馬遷は「史記」の「刺客列伝第二十六」で、その様子を書き残しています。
 司馬遷(紀元前145年~没年不詳)は、中国前漢時代の歴史家で『史記』の著者として知られています。司馬遷の凄いところは、記録する電子媒体など全く無く、記載する紙も無かった時代に、超人的な記憶力を示したことは勿論のこと、死刑を免れるため男根を切り落とされる屈辱的な腐刑(宮刑)を受けても史記を書き残したことです。
 それ程まで、自分が学んだ記録・記憶を失うことは勿体ないと思ったはずです。 
 それに、司馬遷には名言も数多く、「先(ま)ず、隗より始めよ。」、「士は己を知る者のために死す」、「寧(むし)ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」、「良賈(りょうこ)は深く蔵(ぞう)して虚なるが如し。」などがあります。古代の中国では、歴史家・司馬遷の他にも、縦横家の蘇泰、張儀、兵家の孫子、呉子、儒家の孔子、孟子、道家の老子、荘子、法家の韓非子、或いは三国志演義に登場する人物など多く誕生しています。
 それなのに、1279年、南宋を滅ぼし中国を統一支配したモンゴル帝国の第5代のフビライ=ハンが支配し「」とした後や、特に、漢民族最後の王朝「」(1368~1644年)が亡んだ後は、傑出した人物を輩出しておらず日本に影響を与えた人物は殆どいません。この理由は、焚書・坑儒の風土だからでしょうか。
 なお、本名・福田定一のペンネームは司馬遼太郎ですが、この由来は、司馬遷には遼(はるか)に及ばない日本の男(太郎)」からだそうです。司馬遼太郎がはるかに及ばないとするなら、一行も記憶出来ない者は何と例えるべきなのか・・・・

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2019年2月11日 (月)

池上ワールド「スパイの知られざる世界」

 2500年前の孫子は、「10万の軍隊を動員して、千里の先ま2019_2_10_01_01で攻め入ったとすると、国民の出費や国家の支出は一日千金もの大金となる。間諜(スパイ)に与えるカネを惜しんで、敵情を知ろうとしないのは、不仁の者である。」と述べています。「スパイ(SPY)」とは国家その他の団体が秘密にしている情報をひそかに、あるいは虚偽、買収などの手段を用いて探知、収集し、対立関係にある他の国家や団体の利用に供する者。またその行為をスパイ行為という。と「ブリタニカ国際大百科事典」にあります。近年のスパイの方法は、ヒューミント(スパイによる情報収集活動)と、シギント(通信を媒介として情報の収集)が主体で、情報収集活動では尾行や監視などあらゆる手段を駆使し、ときにはテロ組織にスパイを潜入させて人的情報(ヒューミント)を収集するとされます。
  さて、昨日2月10日、テレビ東京「日曜ゴールデンの池上ワールド 池上彰の現代史を歩く」では、知られざるスパイ合戦の全貌に迫っていました。まず、 映画「007シリーズ」で知られる英国の諜報機関MI6や、“スパイ天国”と呼ばれるオーストリア・ウィーンを訪れ、この地でスパイ交換した意味や「美しすぎるロシア人スパイ」のその後、イギリスのの観光地ソールズベリーで起きたスパイ暗殺未遂「ノビチョク事件」の現場を訪問するなど意欲的です。サリンやVXよりも強い神経剤ノビチョクを使った暗殺未遂「ノビチョク事件」を簡単にまとめますと、
、米国要人にハニートラップを仕掛け国家機密を探り、FBIのおとり捜査で逮捕された「美人スパイ」アンナ・チャップマンのことはマスコミを賑わせ、これらロシア人スパイ事件は、2010年7月9日、オーストリアの首都ウィーンで米露のスパイ交換が行なわれたことは大々的に報じられていました。
、このスパイ交換では、10人のロシア側のスパイと、西側のスパイとしてロシアで服役していた4人の人質と交換でしたが、このような交換は度々あるとのことです。
、交換した中に、「ロシアの美人スパイ」アンナ・チャップマン、そして、ロシアの元スパイ、スクリパリ(Sergei Skripal)氏が含まれ同氏は英国に亡命したのでした。
、そして、「美人スパイ」はロシアの英雄として迎えられたのに、元二重スパイのロシア人スクリパリ氏と娘のユリアさんは神経剤「ノビチョク」で襲撃されたのでした。
、ノビチョク事件の容疑者として、英国は、ロシア人でロシア軍情報機関職員と見られるアレクサンデル・ペトロフとルスラン・ボシロフという二人を公表しています。
 この事からも「成功したスパイはニュースにならない。失敗したからニュースになる。表に出ない、実は密かに成功したスパイの物語がいっぱいある」などの話は尤もなことです。そして、日本の秘密のスパイ組織とされる、自衛隊「別班」の話となると一転して批判的な見方をしていましたが、日本ほどの大国ですから、国益を守るための活動は極めて大切なことです。それなのに、未だにスパイ防止法が無い日本は、オーストリア以上の“スパイ天国”と言われています。なお、第二次世界大戦後のオーストリアは永世中立国となり、ソ連、米国、英国、フランスによって分割統治され、首都ウィーンも4カ国で分割統治されています。

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2019年2月 8日 (金)

ポルトガルが、1541年日本を発見した

 これはテレビの旅番組で知った事ですが、自分勝手な思い込みと言うか、ところ変われば品変わるの典型でしょうか・・・Portuguesa_image
 欧州で羅針盤が実用化されると、15世紀末から大航海時代が始まりました。そして、コロンブスの「1492年・アメリカ大陸発見」、ヴァスコ・ダ・ガマの「1498年・インド航路発見」、マゼランの「1522年・世界一周」の達成など、次々と世界地図を塗り替えていました。その先駆けは、イベリア半島のポルトガルとスペインとされ、両国で植民・征服活動を分け合うトルデシリャス条約(1494年)を締結して、地球を二分していたという驚きの歴史がありました。
 その繁栄を讃えて「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた時代もありましたが、今ではEUのお荷物と言われるほど凋落しています。きっと、植民地からの搾取だけに頼ったひ弱な経済で目立った産業が無いのでしょう。しかし、過去の栄光を忘れられず、夢よもう一度と思っているのか、首都リスボンには大航海時代を記念した発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)があることはテレビの旅番組で知った事でした。
 その、発見モニュメント広場の地図には、日本発見1541年と記載していました。
 1541年に日本発見の根拠は、ポルトガル船が豊後(大分)に漂着した年だそうですが、日本側には大した記録が無いようです。日本の歴史教科書では、1543年(以後、予算が付いた)、ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲伝来と覚えるのに、ところ変われば品変わるの典型なのでしょう。なお当時、危険を犯しても大航海に熱心だったのは、肉を美味しくする胡椒の輸入とキリスト教の布教が目的とされ、その裏には植民地支配の陰謀が隠されていました。それでも、欧州から日本に初訪問した国はポルトガルであり、パン、カステラ、天ぷら、金平糖、ボタン、かるた、たばこ、カッパ、コップ、キャラメル、ビロード、メリヤスなどの身近や、京都の先斗(ぽんと)町の由来もポルトガル語のponto(地点)が有力といわれますから、相互に気を許した関係が伺われます。
 近年では、ポルトガルもスペインも日本の友好国として、修好通商航海条約を締結してますが、遡れば1549年、バスク人でイエズス会創設者の一人である宣教師のフランシスコ・ザビエルの訪日に始まります。
 サビエルが本国に宛てた報告書には、「この国の人々は、今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人々は異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。大部分の人は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉とも思っていません。──とあります。
 つまり、日本は国民が利口で、且つ強すぎて植民地支配に不向きとの結論です。
■「宣教師のみた日本社会https://www.token-net.com/thesis/thesis-04.html

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2019年2月 4日 (月)

今日にも「春一番」が観測されるか

 昨日は冬と春の分かれる節分でしたが、今日4日は太陽の黄経が 31500000_24sekki°に達した日で「春の気立つを以って也(暦便覧)」とされる「立春」です。旧暦では新しい1年が始まるとされ、一般的には最も寒い時期でした。それなのに、東京都内の天気予報は「晴」、予想最高気温は「18度」で4月並み、更に関東では、その年に初めて吹く南寄りの強い風「春一番」もあるとの予報です。
 もし春一番が吹けば、1988年2月5日を抜いて最速ですが果たして・・・・そして、三寒四温をくり返しながら春に向かうはずです。
 また、中国の最も伝統的な祝日は(旧正月)で、今年は2月4日~2月10日まで7連休のようです。NHKのニュースでも、中国の春節のことが報じられ、この連休(4~10日)前後に約700万人が海外旅行を計画しており、人気の渡航先はタイに続いて日本は2位と報じられています。それに、中国以外の中華圏でも旧正月前後が国民の休日となる国が多いそうで、香港・台湾・韓国・北朝鮮・ベトナム・シンガポール・マレーシア・インドネシア・ブルネイ・モンゴルと10カ国もあるそうです。
 この大型連休を利用して、アジア諸国からも訪日客が益々増加することでしょう。00003776_1
 なお、世界遺産の富士山周辺も外国人旅行客が期待されていますが、今年は降雪の少ない日が続いていて、静岡側は太陽の日差しを受けて山肌が目立っています。また、日本国内で春節(旧正月)を体感できるのは「横浜中華街」で、今年は2月5日から2月19日まで、様々の行事が計画されています。
追記
 金沢地方気象台は2月4日、北陸地方に去年より10日早い「春一番」が吹いたと発表しています。東京でも強い風が吹いていましたが南風ではありませんでした。また、最高気温は東京都心で19度4分まで上がるなど、4月並みとなっていました。

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2019年1月28日 (月)

「生類憐みの令」は天下の悪法?

  今日1月28日は、332年前の1687年1月28日に徳川綱吉が、捨病人・Kakoi捨馬を禁止するなど「生類憐れみの令」発令の日です。これから、犬の保護が象徴的に伝わりますが、犬の「お囲い御用屋敷」を喜多見、四谷、大久保、中野などに造って保護しています。特に中野の犬屋敷は最大時に約30万坪におよび、常時10万~20万頭の犬を飼育していたとされます。
 JR中央線・中野駅近くの、中野区役所やサンモール、警察学校跡地辺りの旧地名は囲町と言い、この辺りを通りがかると「生類憐みの令」によって犬を保護した「お囲い御用屋敷」を思い起こすことがあります。
 この「生類憐れみの令」は、徳川五代将軍綱吉(1646~1709年)の時代に殺生を禁じた135回ものお触れの総称とされ、人は勿論、動物や魚まで「全ての生物の命を大切にせよ」というお触れでした。これを「天下の悪法」、「とんでもない法律」、「綱吉は頭がおかしい」、「犬公方」などの悪評が付きまとい、綱吉の評価を下げていますが、最近では儒教道徳や仏教の慈愛精神が普及する一環と評価されつつあります。
 綱吉の時代と重なる元禄年間(1688-1704)は、政治体制が極めて安定した時代とされ、江戸初期には寺請制度が徹底し、仏教・儒教が奨励されて諸学問が興隆した時代でした。その結果、政治体制が安定して、歌舞伎、落語、浮世絵、浄瑠璃、俳句、相撲など今に伝わる伝統芸能・娯楽・芸術・経済活動などが隆興したとされます。
 この「生類憐みの令」は1709年1月10日綱吉の死と共に廃止されますが、「捨て子禁止令」は残り、 生き物を慈しむ思想は大切にされ治安の安定に貢献しています。
 なお、綱吉の時代にはじまる動物愛護の精神は今も大切にされ、都内にも世田谷区八幡山や日野市石田などに動物愛護相談センターが設置されています。

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2019年1月27日 (日)

「おしん」のモデルは静岡県人か

 ドラマ「おしん」はテレビ放映当時は見逃した個所が多かったので、今回の話を知ってからDVDを購入して殆どを鑑賞しております。Osin_dvd
 昭和58年(1983)4月から一年間放送されたNHK連続テレビ小説「おしん」の設定は、山形の貧しい小作農家に生まれた少女・おしんが、明治・大正・昭和の激動の時代を背景に、様々の辛酸を甞めながらも力強く生きる一代記でした。そのモデルは当時、「ダイエーの中内功」、「ヤオハン(八百半=八百屋の半次郎)の小田原出身の和田カツ」、「美容家の山野愛子」ではという説がありましたが、皆さん、今一つ極貧に耐え切れる印象が不足しておりました。
 それが2013年、放送から30周年を記念した映画版「おしん」が公開されるのを機会に、静岡新聞社が「おしん」のモデルは静岡県川根本町の寸又峡温泉近く出身の民宿「丸山」の創業者・丸山静江さんだという記事を掲載しています。
 「Wikipedia」からの引用ですが、『おしん』誕生の切っ掛けは、「ある明治生まれの女性が、人に言えない過去を病床で綴ったものでした。子守り奉公したり、“女郎屋”に売られたりね」という、1979年に原作者の橋田壽賀子へ寄せられた1通の手紙であった。静岡県榛原郡川根本町出身の丸山静江の半生を、次女の千鶴子が代筆し、橋田壽賀子が「主婦と生活」誌で連載していた「母たちの遺産」に送った事が発端である。その後のドラマ化にあたり、橋田壽賀子やNHK番組関係者から取材を受け、脚本作りに協力した。ドラマでは、丁稚に出る幼いおしんが、最上川を筏で下るシーンが名場面として知られているが、丸山静江も榛原郡金谷に丁稚に出る為、大井川を筏で下って行ったと言う。
  勿論これは事実で、橋田壽賀子先生は、これをヒントにドラマ「おしん」の構想を練ったのでしょうが、しかし、一年間に及ぶ放送に耐える脚本は丸山さんだけの取材では描けなかったはずです。個人的には、明治・大正・昭和の激動期を昭和天皇の時代と、又、当時は昭和天皇と同じ世代が多く存命していて、その皆さんの体験を重ねていたはずで、だからこそ、おしんの生まれを昭和天皇と同じ明治34年(1901年)と設定したのでしょう。
 昭和天皇が誕生されて三年後には、明治37年に「日露戦争勃発」、大正年9年の「戦後恐慌」、大正12年の「関東大震災」、昭和6年の「満州事変」、昭和7年の「五・一五事件」、昭和11年の「二・二六事件」、昭和14年の「大東亜戦争勃発」、昭和20年の「東京大空襲」「二発の原爆投下」、戦後の食糧難等々、様々の辛酸をなめながらも歯を食いしばって立ち上がる様は、正に日本国家自体を象徴しており、これに、昭和天皇をはじめ多くの方々が共感されたからこそ高い視聴率を得たはずです。
 なお、「おしん」という名前に、橋田先生は「信じる、信念、心、辛抱、芯、新、真」などの意味があるとし、しかし、「日本人は豊かになったが、それと引き換えに様々な『しん』を忘れているのではと思って名付けた」としています。
 また、丸山静江(1906年頃~1984年)さんは、静岡県榛原郡川根本町生まれで、民宿「丸山」(御前崎市佐倉1157-3)の創業者です。

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2019年1月26日 (土)

昭和天皇と「おしん」は同じ年齢

 日本列島に強烈な寒波が押し寄せており、昨日25日は山形県戸沢村Osin_img_4の最上川沿いの国道で車が立往生して数キロの渋滞と報じられ、今年からのチェーン規制やドラマ「おしん」の生家、そして昭和天皇の言葉を思い出していました。
 七転び八起きの貧乏物語とも言われ、昭和58年当時放送のNHK連続ドラマ「おしん」の本名は「谷村しん」、明治34年(1901年)山形県最上川上流の寒村生まれの設定です。年齢は昭和天皇と同じで、脚本の橋田壽賀子先生も意識されたはずです。昭和天皇はTV観賞を日常の楽しみとされ、『おしん』を観て「ああいう具合に国民が苦しんでいたとは、知らなかった」と語ったと聞きます。
 この御言葉から、昭和11年の「二・二六事件」当時、貧農・小作の農村で、娘たちが身売りされるほどの貧困ぶりをご存じなら、殆どが貧農出身の青年将校らの処遇も違ったのではと思ったものでした。この事件は、天皇周辺の腐敗を一掃して農村の困窮を救おうとした皇道派の将校らは、天皇から「自ら近衛兵を率いて反乱軍を征伐する」と告げられ鎮圧され、将校ら19名は銃殺刑となりました。
 戦前の天皇は、貧困に喘ぐ国民生活を直に知る機会は殆ど無かったはずです。
 唯一、世情を知る機会は、側近や首相・閣僚らによる内奏・上奏によるもので、それも「民の竈」事情など悪い情報は正確に伝わらなかったはずです。その点、戦後は津々浦々を行幸啓された他、テレビなどの映像から内外の情勢を知る機会も多くなったことでしょう。「おしん」はドラマとは言え、明治・大正・昭和の激動の時代を背景に、様々の辛酸をなめながらも力強く立ち上がる生き様は、正に日本そのものを象徴しており、昭和天皇も共感されたはずです。このドラマは、今も世界各地で再放送され高い視聴率を上げていることは、日本社会の理解に貢献していると思われます。
 なお、「おしん」の生家は脚本でも特定しておらず、最上川の筏下りの場面などの位置関係から戸沢村辺りと推定されているようです。ただ、生家の撮影地は山形県中山町ですが、現在は鶴岡市の庄内映画村オープンセットに移築しています。jまた、八百屋「八百半」を創業した和田カツは、「おしん」のモデルの一人とされますが、この筋立てはジャスコ(現:イオン)などの創業過程を参考にしたもののようです。

http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=aurorajh&prgid=48615833&page=1&categid=35160345&orderby=prg_index

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2019年1月21日 (月)

「殉国七士廟」のことも知って欲しい

 1月20日夜のテレビ東京は、「新幹線の窓から見えた あの“変なの”何Sanganesani_mageだ!?」で、愛知県幡豆町三ヶ根山頂に建つ「グリーンホテル三ヶ根」を紹介していました。このホテルは、三河湾国定公園の三ヶ根山頂(標高321m)に位置し、昭和天皇が昭和54年の植樹祭の際に宿泊されたという歴史あるホテルです。
 ここで日本人なら忘れてならないのは、この至近距離に「殉国七士廟」があることです。昭和天皇皇后両陛下が植樹祭会場の愛知県豊田市近くの宿ではなく、遠く離れた「グリーンホテル三ヶ根」に宿泊を希望された理由が、この殉国七士の墓が近くにあったからでした。この「殉国七士」とはGHQに、いわゆる「A級戦犯」として昭和23年12月23日に処刑された次の7名の方々です。
・東条英機(陸軍大将、内閣総理大臣)
・広田弘毅(文民、内閣総理大臣)
・板垣征四郎(陸軍大将、関東軍参謀長)
・木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)
・土肥原賢二(陸軍大将、特務機関)
・松井石根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)
・武藤章(陸軍中将、第一四方面軍参謀長)  
 この方々は巣鴨拘置所で絞首刑の後、横浜の久保山火葬場で火葬にされます。
 東京裁判の弁護士、三文字正平、林逸郎両弁護人は「遺体は遺族に帰して欲しい」とGHQに懇願しますが叶わず、それではと遺骨奪還計画を立てます。そして、三文宇正平弁護士と久保山火葬場隣の興禅寺・市川伊男住職は、深夜、久保山火葬場の飛田火葬場長の案内で遺骨が捨てられた場所に接近してかき集めたのでした。この遺骨は一旦は興禅寺で供養して、その後、密かに伊豆山中に安置されます。
そして、ようやく愛知県幡豆町の理解を得て、三ケ根山頂に埋葬して墓石を建立し、昭和35年8月16日、関係者や遺族が列席して慰霊祭が行なわれています。  
 この経緯は昭和天皇もご存じだったのでしょうが、中々ご参拝の機会が無く、ようやく昭和54年の愛知県豊田市で開催された植樹祭の際に、陛下の希望で「グリーンホテル三ヶ根」の宿泊が決まったとされます。しかし「殉国七士墓」直近で参拝出来ない諸般の配慮から、植樹祭の当日、早朝、天皇皇后両陛下は「殉国七士墓」の方向に向かわれて20分近くも不動のまま佇立されたのでした。その翌年の11月8日には、美智子妃殿下と礼宮殿下も同ホテルに宿泊されて同様のことをされたとのこと。更に今上天皇も12月23日の命日には、毎年、使者を使わせているそうです。
 「テレビ東京」も昭和天皇宿泊と同時に殉国七士廟も触れて欲しかったことです。

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2019年1月20日 (日)

朱熹の「偶成」少年老い易く学成り難し

 昨年末の事ですが、ある公民館を訪ねますと一室から朱熹(しゅき)の「偶成」を吟じる声が漏れ聞こえ聴き入っていました。2019_1_17_o2詩吟は、主に漢詩に独特の節回しを付けて、日本人の心を歌う文化として長い歴史を有し、昔は漢詩を詠むことに加え武士の嗜みとされていました。
小生も頼山陽の川中島「鞭声粛粛 夜河を過る・・・」や、朱熹が偶然に心に浮かんだという「偶成」の「少年老い易く 学成り難・・・」などは諳んじています。しかし、暗記しているというだけで言行は中々一致せず、希望に燃えていたあの少年も、70近い年齢になって既に秋声を自覚しております。
 ところで、朱熹(1130~1200)は南宋の儒者で、孔子が説いた儒教から派生した朱子学の祖とされ朱子(しゅし)は尊称です。その朱子学の伝来は鎌倉初期に真言宗の僧が宋から文献を持ち帰ったのが最初とされます。しかし当初は大して評価されなかったのに、江戸初期の儒学者・林羅山(1583~1657)は23歳で徳川家康に側近として抜擢されると、上野忍岡(現在の上野公園辺り)で昌平黌(昌平坂学問所→東京大学の前身)を開いて、儒教の教えである目上・年長者を敬い、儀礼と作法を順守する(上下尊卑の秩序)という思想を幕府公認で広めています。
 現代では朱子学には賛否両論ありますが、当時は武士階級だけでなく広く国民に受け入れられ、規律を守り、他人を思いやる気質が形成された効果と同時に、それまでの下剋上を捨てさせ身分道徳を定着させて徳川盤石の基礎を創ったとされます。
 いずれにしても、林羅山は「少年だからとボンヤリしていては、何も成就しないうちに老い果てる。よって僅かの時間も軽んじてはならない」と少年時代から朱熹の教えを実践した事は確かです。ただ残念にも、明暦の大火(振袖火事)で神田の自宅と、幕府下賜の胴文庫を焼失した衝撃で落胆してか火災から4日後に病死しています。
 きっと、羅山にとっては学を積んだ証の蔵書類は命そのものだったのでしょう。

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2019年1月17日 (木)

玉川上水は世界遺産候補になれる?

 最近、五日市街道と玉川上水が併行する小平市上水本町2-19「いろりの里」の隣の小川水衛所跡に暫し立ち寄り、江Suieig0_ato戸時代初期の土木技術の高さと世界遺産のことに想いを馳せました。水衛所(すいえいじょ)は、江戸市民へ安全な飲水を供給の為、水番人が常駐していた所です。江戸初期には、羽村、砂川村、代田村、四谷大木戸に置かれ、更に、明治27年に水衛所に名称変更してからは、熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木、四谷大木戸に設置しています。目的は玉川上水の水質管理とメンテナンスで、水量調節、持ち場の見廻り、破損個所の修理、ゴミの撤去などを行って水路の維持管理に従事していました。
 聞くところ、都内の世界遺産候補に「国立西洋美術館」に続いTamagawa_image_2て「玉川上水」がありますが、玉川上水が有力候補になるためには、水路環境が歴史の変遷と共に大きく変貌している弱点があります。特に下流部の23区方面では暗渠化や排水路に転用され、その地上部は公園や遊歩道などの所が見られます。
 願わくば、上流部の多摩地域のように復元して欲しいものですが、それには莫大な資金が必要です。もし水路が再生されたなら、その水を江戸城(皇居)の外堀に流せば水質も改善してヘドロも撤去されるはずです。これらと同時に、江戸城の天守閣も再建して、更に、外堀辺りを走るJR中央線は地下化が理想でしょう。
 将来、東京都の予算に余裕が出たなら、是非、実現して欲しいものです。

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