2018年10月23日 (火)

改めて天皇陛下の存在に想う

 最近、日本の国柄をいう「国体」に触れる機会がありましたが、簡潔に申すなら、日本の「国体」は神武天皇以来、天皇を元首とする国家と言える00001204203200_はずです。先般亡くなられた佐々淳行氏は、2011年5月号「歴史通」で、「天皇―最高の危機管理機構」と題して、「天皇制は日本人が生み出した知恵の結晶、発明である」と述べています。
 また、明治天皇の玄孫で憲法学者の竹田恒泰氏は、著書「日本人の原点がわかる国体の授業」で、「日本で唯一、天皇だけは替えがききません。万が一、天皇が不在になったとしたら、もはや日本ではなくなるのです。天皇が唯一無二の存在であることを具体的に示していきましょう。天皇が不在になったら、国の統治機構は、立法・行政・司法のすべてがまったく機能しなくなります。」と述べ、その証拠として、「天皇の任命権」を定めた憲法第6条0005__sl500_と、「国事行為」を定めた憲法第7条を例示しています。
◎日本国憲法第6条
1  天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2  天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
◎日本国憲法第7条
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2 国会を召集すること。
3 衆議院を解散すること。
4 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
6 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7 栄典を授与すること。
8 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
9 外国の大使及び公使を接受すること。
10 儀式を行ふこと。
 つまり、内閣総理大臣の任命は天皇であり、天皇が任命しなければ内閣総理大臣も最高裁長官も成立しないことになり、他の閣僚も同様です。それに、衆議院の解散も総選挙も天皇が公示することで始まります。また、全ての法律は天皇が公布しないと効力を持ちませんから、いくら国会で頑張って法律を作っても無駄なことになりますから、如何に天皇陛下の存在が大きいかを知ることが出来ます。
 そして竹田恒泰氏は、「日本では天皇の身体を通してあらゆる国政が具現化されています。私たちはその仕組みのなかで生活しているのです。もちろん、そういったことは、あくまでも形式的・儀礼的なものであって、天皇の意思がそこに入っているかどうかは、あまり重要ではありません。」と説き、「万が一、皇族の方々が消滅してしまうようなことが起こって、正統な皇位継承者がいなくなると、それは皇室がなくなるのと同じことなのです。国体を守ろうとするのであれば、天皇と皇位継承者を生み出す皇族(宮家)を合わせた皇室全体を守らねばなりません。」と締めています。
 このように、「天皇陛下の仕事」として、憲法にある国事行為の他に、皇室祭祀(宮中祭祀)、宮中晩餐会、、外国ご訪問;  被災地の慰問や各地へのご訪問、園遊会、皇居内での稲作など多岐に亘っていることを理解すべきと思います。

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2018年10月22日 (月)

「国体」から「国スポ」の変更に想う

 「国民体育大会」の名称が2023年から「国民スポーツ大会」に変更Photoすると、今年6月に決定しています。そして、略称も「国体」から「国スポ」と呼ぶようになるのでしょうか。
 第1回「国民体育大会」は、GHQ(連合国軍指令本部)の承認を得て、1946年(昭和21年)から翌年にかけて開催されています。きっと、GHQが許可したのは、占領下の日本国民の意識を政治や経済、軍事などの真実から目を逸らす目的とした日本弱体化政策である、「3S政策」、「Screen(映画)、Sport(スポーツ)、Sex(性産業)」の一環としてスタートしたはずです。そして、「国民体育大会」は略称で「国体」と呼ばれ、それまでの「天皇を中心とした日本国家の秩序」である「国体」は、GHQの圧力で教科書から消され使用禁止用語にされています。かつ、国体は「国民体育大会」の略称として一般国民に定着し、今や「国体」の本当の意味を知る日本人は少ないように思われます。
 名称変更の経緯は想像の域を出ませんが、日本の国柄を言う「国体」をスポーツ大会として広まったことは畏れ多いと関係者が気付いたからでしょうか。それとも、来年の天皇陛下の退位、新天皇の即位、新元号下で新たな「国民スポーツ大会」を目指す意気込みでしょうか。
 なお、「国体」「古事記」「日本書紀」「教育勅語」などの神話的国体観をタブー視する教育は、占領が解除後は早々に改めるべきでしたが、GHQの「日本弱体化政策」としての洗脳教育は、そのまま、日教組(日本教職員組合)に受け継がれ今も継続されています。

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2018年10月20日 (土)

一手先を読んで失敗を回避する

 特に専門知識を持たなくても、無意識のうちに危険を予知し、危険を回避する感覚を磨くことで、誰もが事故や失敗000001240hdkの少ない生活をしているものです。具体的には、「こうしたら、ああなる」、「ああ来たら、こう対応する」という単純なことのはずです。最近、究極の深い読みを見せて、世界オセロ選手権では福地啓介君(11)が最年少優勝し、将棋の藤井聡太七段(16)は最年少新人王に輝いていましたが、ゲームですから、国民に感動を与えても社会的な影響は少ないものです。彼ら天才少年のように、何も何手も先を読む必要はないのに、世間から高い評価を受けていると思われる組織や企業、人物によるお粗末な悪事には呆れます。
 まず、油圧機器メーカーのKYB(カヤバ工業)によるデータ改ざんでは、その疑いがあるダンパー使用の建物は全国に千件近くあるとされ、姉歯以来の大問題に発展しそうです。また、「積水ハウス」の罪ではありませんが、弁護士が立ち会いながら、「地面師」8人から、西五反田の旅館跡地を巡って約5500002583320753億円を騙し取られ、更に、不正入試や裏口入学では、東京医科大学や順天堂大、昭和大も名前が上り、文部科学省の前科学技術・学術政策局長や医療会社の元役員も関係しています。
 慶応義塾大学2年の容疑者は、酩酊した女性に乱暴した準強制性交容疑事件であり、これからは創始者の福沢諭吉に思いを馳せています。諭吉の並外れた先見の明から、近代教育の礎、洋書の翻訳、中央銀行の創設、保険制度の紹介、国会設立や憲法制定に向けた提言等々で日本の近代化に貢献しています。著書の「学問のすすめ」は大ベストセラーとなり、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と始まりますが、ここで言いたい本質は、「人は生まれた時には、貴賎や貧富の区別はない。ただ、しっかり学問をして物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人となる、ということだ。」と述べていることです。
 この項で引用した企業や個人の方々は、結局、何も「学ばない人」なのでしょうか。
 当社も、社会に迷惑をかけないように「他山の石」にしたいと思っています。

福沢諭吉 学問のすすめ - 青空文庫

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2018年10月16日 (火)

仁徳天皇陵の発掘調査に想う

 5世紀前半に在位した第16代仁徳天皇は、現在の大阪市辺りを都としImage4、善政を敷き、茨田堤、山背の栗隈県、和珥池、横野堤など数々の大規模な土木事業や広大な新田の開発を行ったと伝わっています。また、「民のかまどは賑いにけり」の逸話も伝わるように、困窮者を救い、病者を慰問し、孤児や寡婦を扶助したと「日本書紀」にも書かれています。
 歴代天皇は国民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、自分以上に民を大切な存在とし、時の政治権力者も天皇から民を預かる役割であったとされます。そして、仁徳天皇陵は大山古墳や大仙古墳とも呼ばれ、大阪府堺市にありますが、宮内庁は10月下旬から保全整備の一環として堺市と共同で発掘調査を行うと報じています。
 数年前には、「日本のこころ」の衆議院議員で、陵の近くに住む西村慎吾氏が、陵の入り口付近で、「陵墓の破壊であると全く気付かぬ風情の者達が、フェンスで囲って中がPhoto見えなくして工事を続けている。」と厳しく批判していました。きっと、出入りする工事人夫の服装や言動、工事方法から、そのように見えたのでしょう。このように、以前から関心が強い陵墓と知られ、その形から三種の神器の一つ「マナの壷」が埋設されている噂や、終戦直後の1945年9月には、進駐した米軍が極秘裏に玄室を発掘した噂もあります。いずれにしても、天皇陵の発掘はご法度の場所ですから、今回の調査発掘でも、数か所であっても慎重の上にも慎重を重ねてお願いしたいものです。

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2018年10月14日 (日)

慶喜は植民地寸前の日本を救った

 大河ドラマ「西郷どん」も愈々佳境に入り、14日、第38回は「傷だらけの維新」です000025bo1204203200_
 きっと、上野寛永寺に立て籠る彰義隊攻撃に、新政府軍は最新鋭の7連発スペンサー銃やミニエー銃、佐賀藩のアームストロング砲で半日で蹴散らします。北越戦争では、長岡藩は河井継之助指揮の元、ガトリング砲2挺のほか、アームストロング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃などの最新兵器で応戦するはずです。
 このように戊申戦争では、米国の南北戦争 (1861~1865年)終結で余った最新鋭の武器は、仏国経由で幕府に、英国経由で薩長に大量に売られていたのです。
 当時の武器製造は、英のアームストロング社と仏のシュネーデル社が二分していましたが、どれも最強の財閥ロスチャイルド系であり、その日本人手下(営業マン)が、坂本龍馬、岩崎弥太郎、大倉喜八郎、安田善次郎らでした。“死の商人”は戦争の匂いがす1867_image2ると、チャンスとばかりに敵対する双方に武器を売っていたのです。その窓口は、香港に設立したロスチャイルド系のHSBCホールディングスで、横浜に支店、長崎に代理店(グラバー商会)がありました。
 そして、内乱で弱った日本を攻めて植民地支配の陰謀があったことに気付いたのは、徳川慶喜や一部の幕臣でした。
  10月7日放送の「西郷どん」では、江戸城を無血開城後、上野寛永寺に蟄居していた慶喜を西郷が訪問し、鳥羽伏見の戦いから「敵前逃亡」、「腰抜け将軍」などと非難されても、大坂城を脱出した理由を語っていました。
 西郷は慶喜に、「何故戦わずに逃げられたのですか?本当においたちが恐ろしくて逃げたのでございますか?」と尋ねると、慶喜は「俺はロッシュ殿から逃げたのだ」、「あの男は俺にもちかけた。いざとなれば、フランスが援助すると。精鋭なフランス軍12万と、銃を5万丁。直ちに遣わそう。その代わり、勝利した暁には薩摩をよこせと」、「日本の中で、フランスとイギリスが戦い、勝った方が日本を乗っ取る。俺にできることは、逃げることしかなかった」と語っていました。NHKの大河ドラマは全体に史実と違う場面が多すぎるのですが、この脚色は評価したいと思います。
 このロッシュとは、幕末の駐日フランス公使のレオン・ロッシュのことで、慶喜が江戸に戻ってからも、三度も江戸城を訪ね、再起を促すも慶喜は動きませんでした。慶喜は水戸藩の江戸藩邸で生まれ、11才で一橋家の養子となりますが、きっと「天皇家と徳川家が対立したら天皇家に味方せよ」との光圀公の教えを知っていたはずです。なお、広瀬隆著の「赤い楯」ロスチャイルドの謎―は手元にありますが、この一族がいかにして世界を裏で操るまで至ったかが書かれています。

1865年3月3日、香港にHSBCホールディングス設立
1865年5月、亀山社中(海援隊)を結成
1866年 HSBCホールディングスは横浜に日本支店設立
1866年3月7日、薩長同盟締結
1866年7月28日、パークス公使ら英国使節団(五代友厚、森有礼ら)歓迎の宴
1867年11月9日、大政奉還
1867年12月10日、坂本龍馬暗殺
1868年1月8日、徳川慶喜は大阪城にて仏国公使レオン・ロッシュと会見。
1868年1月27日、鳥羽伏見の戦い
1868年1月30日、徳川慶喜はひそかに大阪城を脱出し、江戸へ
1868年2月12日、仏国ロッシュ、徳川慶喜に再起を促すが、慶喜はこれを拒否
1868年2月18日、英国公使パークス、戊辰戦争に英国の局外中立を宣言。
1868年3月 5日、徳川慶喜、江戸城を出て上野・寛永寺に蟄居
1868年3月16日、勝海舟、陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命される。
1868年4月 5日、勝・西郷会談。パークスの圧力もあり江戸攻撃中止が決定
1868年5月 3日、江戸城無血開城
1868年5月22日、パークス、ビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出
1868年10月6日、新政府軍、会津領内に侵攻
1868年10月23日、明治維新

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2018年10月11日 (木)

「始まったことは必ず終わる」佐々淳行

 危機管理、安全保障の先駆者・佐々淳行氏が10月10日、老衰で死去されま00000204203200_した。ご冥福をお祈り申し上げます。菅義偉官房長官も「危機管理のプロとして大いに活躍した。功績をしのび、ご冥福をお祈りする」と讃えていました。同氏は、東大を卒業後、警察20年、外務省4年、防衛庁9年、内閣3年の長きに亘り、常に最前線に立って能力を発揮しながらも、警察庁長官や警視総監などの目立った地位に立つことはありませんでした。これに、自らも「上司に立てつく癖があったから・・」と述懐されていました。
 危機管理評論家として、テレビなどに出演されると、ズバリと本質を突く、衣着せぬ切り口で、数々の名言を残して人気を博していました。「大きく構えて小さく収める」、「始まったことは必ず終わる」、「備えあれば憂いなし」と言うが日本は「憂い無ければ備えなし」だ。「良好な治安と国の防衛こそ最高の社会福祉」、「自助」「互助」「公助」、そして「防衛」「防災」「防疫」「防犯」これが危機管理のすべてだ。などは真っ当過ぎる言葉と思います。今後、このような志を継ぐ人材は現れるのか・・・・・
 佐々氏は数々の著書を残していますが、肩を張らずに読めるのは、1989年発刊の「目黒警察署物語」―佐々警部補パトロール日記と思います。著者が東大を卒業0000_bo1204203200_して、現在の国家公務員上級職(当時は警察3級職)として勤務を開始し、巡査部長3名を含む35人の部下を担当した23歳の新人警部補が、その時代を背景にした奮闘記録です。物語は1954年(昭和29年)10月1日、目黒警察署の門前に立ったときから始まります。
 「ここが私の警視庁警部補としての最初の勤務部署・警視庁目黒警察署の正面玄関だ。警察官としての人生が始まる“人生の門”か。いかに自ら進んだ道とはいえ、なんとまあ、殺風景な入口だろう・・・・・」と始まります。23歳で殆どが年上の部下を持たされ、ご苦労されたでしょうが、どんな仕事でも「置かれた立場で最善を尽くして責任を果たすことが、最も価値がある」と学ぶことが出来ます。
 佐々淳行氏のご先祖に、織田信長の武将として戦功を上げた佐々成政がいますが、大の秀吉嫌いで悲運の最期を遂げます。また、徳川光圀に仕えた佐々宗淳(「水戸黄門」の助さんこと佐々木助三郎のモデル)もご先祖とされますから、優れた能力の家系なのでしょう。佐々氏も、ご先祖に負けない剛毅と気骨の人でした。

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2018年10月10日 (水)

協力者作りは、接近・取込み・操作

 昨日は、シーボルトのスパイ事件に触れましたが、今も世界で暗躍するスパイ事件にも触れたいと思います。まず、今年3Spy_image2月、英国のショッピングセンターで、同国とロシアのWスパイだった男と娘が神経剤「ノビチョク」を使用した殺人未遂事件で、ロンドン警視庁は偽名入国したロシア人二人を容疑者と特定。その容疑者は、露軍・情報機関所属の軍医大佐と報じています。まず、スパイは「寝返る者」「密偵」「間諜」などと言いますが、厳密には、ケースオフィサー(工作担当官)とエージェント(協力者)に分類されるそうです。
  ケースオフィサーは諜報機関の職員で、外国に派遣される時は、記者や大使館員など合法的身分で入国し、通常は、外務省や国務省へ出向職員となり、周囲を欺くために大使館で働き、その国の新聞・テレビ・発行物などから情報を収集して分析し、自国に有利な政治的宣伝を担当。皆、語学が堪能で有能、人当りが良く、多趣味。時には、偽造旅券で敵地に侵入し、盗聴や盗難、破壊、殺人も辞さないそうです。
  エージェント(密告者)は、通常は防諜機関に協力する一般国民ですが、時には、特定の組織・団体・企業などの内部情報を別の組織に提供する事もあるそうです。
 また、狙った相手を密告者(スパイ)」に仕立てるには「接触・取り込み・操作」の三段階があって、その際は、誰もが持っている弱み、お金・異性・名誉心などに付け込む方法です。きっと、最初の接触の段階で、「カネに弱い」「女を使う」「遊び好き」などと探りを入れるのでしょう。免疫がない日本人は比較的簡単に落ちるそうです。
 日本には「スパイ防止法」がないので、スパイ機関は無いことになっており、それに当局は、スパイ行為が発覚しても見ているだけ、「スパイ天国」とも言われる日本には、世界中のスパイが集まり隠れずに堂々と活躍しているそうです。
ロシア軍医が容疑者か 元スパイ襲撃事件で英報道(18/10/09)   https://youtu.be/ccmdJ5iQVzY

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2018年10月 9日 (火)

10月9日は「シーボルト事件」発覚

 お客様の中に、千葉県香取市の伊能忠敬の子孫がおられ思い出しています。000000001204203200_
 文政11年(1828年)10月9日は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866年)が帰国準備の最中、日本で収集した品々を積んで先発した船が台風(シーボルト台風)で座礁し、船の修理の際に、積荷の中から禁制品の地図などが発覚した日です。
 当時の日本は西洋人はオランダ人しか入国できず、ドイツ人のシーボルトはオランダ人と偽って1822年に入国しています。入国の際、シーボルトの話すオランダ語を怪しまれまれるも、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」と偽って、その場を切り抜けたことは有名です。そして約6年間の滞在中に、浮世絵や屏風などを多くのコレクションの中に、伊能忠敬らが測量した持出禁止の日本地図の写しを持ち帰ろうとした事件でした。
 この事件に関与した人物として、シーボルトが入手した日本地図は、幕府天文方・書物奉行の高橋景保から入手したもので、発覚は、間宮林蔵(1780~1844年)の密告からとされます。間宮林蔵は、常陸国筑波郡上平柳村(茨城県つくばみらい市)の農家で誕生し、後に蝦夷地(現北海道)に測量に来ていた下総の佐原(現千葉県香取市)商家出身の伊能忠敬(1745~1818年)に測量技術を学んでいます。
 そして、1809(文化6)年、間宮海峡を発見する偉業を成し遂げ、更にシーボルト事件という密貿易の摘発に貢献したからでしょうか公儀隠密として活躍しています。
 なお、シーボルトは国外追放になるも、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、追放令も解除されると、1859年、オランダ貿易会社の顧問として再来日しています。
間宮林蔵記念館は茨城県つくばみらい市上平柳64
伊能忠敬記念館は千葉県香取市佐原イ1722−1
シーボルト記念館は長崎県長崎市鳴滝2丁目7−40

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