2018年4月17日 (火)

熊本城の石垣修復に「穴太衆」

 熊本では平成28年4月14日と16日の二度の激震で、熊本城をはじめ各地で甚大な被害が発生しましたが、熊本城の復旧には0005_151_2太衆の末裔も加わって順調のようです。さて、旧・陸軍は工兵という技術集団が重用され、「工兵の歌」では「挺身深く潜入し、野に臥すことも幾そ度、今ぞ臨むや目的地、地軸も砕けむ大爆破、退路遮断の任なりて・・・・」とあるように、戦況を大きく左右したそうです。
 戦国時代も、このような技術集団が重宝され、石垣等の石積集団の穴太衆(あのうしゅう)、鉱山掘削やトンネル技術集団の山衆(かなやましゅう)や百足衆(むかでしゅう)、鉄砲製造や火薬の原料の硝石を容易に手に入れる鉄砲傭兵集団の雑賀衆(さいかしゅう)などの、優秀な技術集団には大金を支払っても、多く雇い城郭造営や戦では敵の城の破壊工作に利用した武将が戦に勝利したようです。
 事実、秀吉も蜂須賀小六の率いる川並衆は、普段は水運や治水などの仕事をしていた人たちを戦で重用し、また、信長も「安土城」の築城に穴太衆を雇い戦では敵の城の破壊に利用したとされます。そして、甲斐の武田信玄も金山衆・百足衆を抱えて、金銀採掘による潤沢な軍資金で武田軍団を支えていたし、武田家滅亡後に家康が一早く千人同心や金山奉行・大久保長安などを保護したのは、実際は、多摩川上流の黒川渓谷沿いに多く住む「金山衆」による金山採掘やトンネル掘削の技術と知識が欲しかったからとされます。Support_bridge
 ところで、熊本城が熊本地震で大きな被害を受けましたが、この石垣修復に、穴太衆の末裔・粟田建設(滋賀県大津市)が携わっているそうです。「穴太衆」は、大古から古墳の造営の他に寺院や城郭などの石工技術を持った集団で、元々はユダヤの末裔とされ、シルクロードを東へ東へと移動する途中では、万里の長城や古墳の建設にも関係したとされます。なお、旧日本軍で工兵と呼ばれた技術集団は、陸上自衛隊では施設科部隊と呼ばれ、災害派遣では架橋や道路復旧に、PKO活動でも、現地の復旧活動等に活躍する様子が報じられますが、穴太衆や川並衆、雑賀衆に負けない仕事をすると言われています。そして、〇○衆と呼ばれた技術集団は、歴史の流れと共に日本各地に広まり、建築・土木全般で現代建築と融合して「物づくり日本」を支えているはずです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年4月13日 (金)

乳飲み子の 匂いも愛し 春うらら

 最近、初孫が誕生した友人が「」をテーマにした俳句を多く送ってくれました。
 ペットや孫など、無条件で可愛がっている対象を詠っても、多くは駄作になると断りを入れられましたが、手放しの慶びの様子だけは間違いなく伝わってきますので、紹介したいと思います。
・乳飲み子を 眺めあやして 春盛りMago_image1
・初孫や 卯月の候に 産着抱く
・春4月 産着の孫の 初笑顔
・産声も 動画で届く 春4月
・ユキヤナギ よりも真白き 産着かな
・乳飲み子の 匂いも愛し 青葉風
・松風や 嬰の髪嗅ぐ 顔寄せて
・干支は戊戌  卯月の候に 産着抱く
・初孫を 抱きし息子に 春来たり
・福耳の 孫に託すは 春の夢
・老眼で 孫の手占う 春日向
・マスカケで 何を掴むか 嬰の春

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年4月 5日 (木)

注目の癒し分娩室“COCOON”

 先日、「4月1日生まれはハンディが大きいか」と記事にしましたところ、偶然にもA9ea22友人の息子さんお嫁さんが、4月1日の予定日の数日後にCOCOON(コクーン)分娩室で出産したと知りました。
 COCOON(コクーン)とは「繭(まゆ)」の意味のようですが、分娩室をマユのような快適な空間にして、緊張しがちな妊婦さんを落ち着かせて出産を感動的に演出しているのだそうです。30年も前のアメリカ映画に『コクーン2/遥かなる地球』では、老人ホーCocoon_2ムの老い先短いお年寄りたちが、宇宙人のプールに入ると若者顔負けの元気を得て青春を取り戻すという話しでした。きっと、コクーン分娩室も、この映画もヒントに映像や音楽で快適にして、出産をドラマチックなものにしているのでしょう。
 また、女性の身体は月に影響されることが多く、妊娠も出産もある程度予測されるとされ、満月や新月の日に陣痛が始まり、且つ、満潮も重なるとより確率が高くなるそうですが、不思議なものです。
 まずはおめでとう御座います。
■横浜のあおばウィメンズホスピタルの紹介
 https://youtu.be/NDzac4g98hE..

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年4月 1日 (日)

4月1日生まれはハンディが大きいか

 4月の新年度は、多くの人達が入学・新学期・進級・入社・異動・0000011525_2_2転勤・転居などで新生活に切り替わる季節であると共に、テレビ番組の変更、外食等食料品の値上げ、医療・介護サービスの変更なども相次ぐようです。
 ところで、ここ数日中に出産予定の方々やご家族も大いに気にされているはずです。つまり、4月1日生まれと4月2日生まれでは、たった1日の違いで学年がひとつ変わるというハンディ?を一生引きずるからです。その理由は「学校教育法第十七条で、「保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」とあり、「満6歳になった翌日以降で最初に迎える4月1日に入学」と規定されているからです。それには、年齢を計算するには「年齢計算ニ関スル法律」(明治35年12月2日法律第50号)があって、年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算スとあり、生まれた日から年をとり始めることを理解する必要があります。
 このことから、元プロ野球選手の桑田真澄氏(1968年4月1日生まれ)は、PL学園高校時代に1年の夏から甲子園に出場したことで、出場中最も若い選手として紹介されていました。この話しからは、早生まれは一概に体力や能力にハンディがあるとは断言出来ないところもあります。なお、4月1日出産は病院に出生証明書の日付を4月2日に変更の要望をしても、虚偽証明書発行の理由で断られることになります。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年3月30日 (金)

奈良橋に「奈良橋」は無かった

 東大和市奈良橋の奈良橋川空堀川に挟まれた位置Image6に社有物件が数棟有りますので、近くの橋の名が気になりました。つまり奈良橋川に架かる奈良が地名になったと思ったのです。近くだけですが橋名を調べたところ、八幡橋、日月橋、元村山橋、熊野前橋はありました、奈良は見つかりませんでした。
  さて、東京の西方・奥多摩の山間部から流れ出た多摩川は、何度も氾濫を繰り返して土砂を運び出して武蔵野台地という扇状地を形成しました。ところが狭山丘陵は多摩川が削り残したように台地にポツンと島状に残り、そして二つの丘陵の間に谷が形成され、その谷をせき止めて狭山湖(山口貯水池)・多摩湖(村山貯水池)が1927年(昭和2年)に完成し都民の水ガメになりました。 面白いのは、二つの湖に流れ込む河川は無く、多摩川の水を羽村取水堰で取り入れ、導水管で貯水池に導き、更に、東村山浄水場、境浄水場へと導かれImage2_2、都民の上水道になっています。
 なお、奈良橋の地名は「豊鹿島神社」に「文政元年(1466)武州多東郡上奈良橋郷」の記録があるそうですが村誕生の年代は不明です。きっと武蔵国の誰かが、万葉集に『あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり』とあるように、奈良のような繁栄を期待したのでしょう。そして、天正19年(1591)徳川家康が江戸に移ると、家臣に領地を与え村々の地頭として配属していますが、このとき村切りという方法で、奈良橋、蔵敷、芋窪、高木、後ヶ谷、清水などと強制分断されたものの、明治期からは大和村の中心地として発展しています。ただ、住民の意向を無視した村切りは後の世まで影響し、今も市長や市議会議員などの選出に尾を引いているそうです。Image8

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年3月25日 (日)

府中~奈良橋~所沢「奈良橋道」考

 昨年から、東大和市奈良橋に現場がありますので頻繁に向かう機会がImage6あります。
 最近ですが、たまらん坂がある「多喜窪通り(都道145号立川国分寺線)」を府中方向に車で向かいますと、府中市武蔵台3-1先の「武蔵台二丁目交差点」の左角に「奈良橋通り」の表示に気付きました。名称からして、この辺りから東大和市奈良橋方向に道があったと見て、少し走って見ましたが道は途切れて確認出来ません。そこで、地図で調べてみますと、やはり奈良橋につながる痕跡がありそうです。
 奈良橋の八幡神社東側の「奈良橋道(ならはしみち)」は「鎌倉街道」の伝承があるそうです。この辺りは、武蔵七党の一つ村山党の山口氏が治めた地域で、東村山市や武蔵村山市など名を残しています。山口氏の山口城は平安末期に築城されましたが、1590年の「小田原の役」で破れ、八王子城、小田原城と共に廃城となり、以後は徳川領となりました。しかし城は再建されず、今は所沢市山口1517所在のファッション市場サンキ所沢店の敷地ですが、奈良橋道は、きっと山口城辺りまで延びていたはずです。また古い道に、府中から足利方向に官道東山道武蔵路が延びていましたが、後に「鎌倉街道=府中街道」として整備されたようです。この官道の「駅」の一つに久米川があり、日蓮聖人が佐渡に流される際に一泊したと記録があるそうです。
 なお、『散歩の達人 2018年4月号 立川・国立・国分寺特集』では、「国立のたまらんらん♪雑貨巡り」、「今、谷保に人が集う理由」などが掲載されています。
■『迅速測図』 (明治前期測量の2万分1フランス式彩色地図) こちらで閲覧可能

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年3月21日 (水)

薩摩藩(鹿児島)と庄内藩(山形)の関係

 ドラマ「西郷どん」に庄内藩や清川八郎、新徴組のことが登場するのはImage先でしょうが、薩摩藩との深い関係を知識として押さえたいと思います。さて、藤沢周平作品に多く登場する海坂藩は、「江戸から北へ百二十里、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある。」とあり、比較的守りに強い地形と思われます。この架空の海坂藩は、藤沢周平の出身地・鶴岡市の酒井家庄内藩のことで、藩祖は徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の一人であり、水戸から秋田に転封された佐竹藩など外様大名に睨みを利かせる配置でした。庄内藩の歴代藩主の善政から、領民との関係も良く1840年(天保11)の三方国替えを百姓一揆で阻止したこともありました。
 ところが、幕末の1863(文久3)年に江戸市中取締りを受けることになり、会津藩の京都守護職同様に佐幕派の筆頭として歴史の表舞台に仕方なしに躍り出ることになります。そして、戊辰戦争の直接の引き金となった江戸薩摩藩邸の焼討事件は、テロ破壊行為を繰り返す薩摩藩に対する、庄内藩による取締りの過程で発生するも対立が際立つことになります。結果的に戊辰戦争で賊軍になった庄内藩を西郷隆盛が一目置いた戦後処理をしたのは、百戦百勝の強さを認めたことと、薩摩藩を昆布などの密貿易で富ませた酒田出身の本間郡兵衛 (北曜)への恩義からとされます。戊申戦争は一般的に幕府側が惨敗した印象ですが、庄内藩は連戦連勝で勝ったまま降伏した藩でした。庄内藩が強かった理由に三方領地替えを阻止した藩と領民との連携同様に、戊申戦争でも農民や町民による民兵2200人を加えた約4500人の兵を編成したことや、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と謳われた豪商・本間家をバックに、米国の南北戦争でも使用した七連発スペンサー銃の大量導入がありました。Ikun_satou
 慶応四年(明治元年・1868年)9月22日、官軍の猛攻に会津藩が屈すると、不敗の庄内藩も孤立無援となります。地の利と豊富な近代兵器で藩内に敵を一歩も踏ませなかったが、孤立無援の状況と時勢を知り降伏・恭順を決めるも、鳥羽伏見の戦いの発端となった江戸薩摩藩邸の焼討事件などから厳しい報復処分を覚悟していました。ところが、西郷は降伏を受ける参謀の黒田清隆に「酒田湊は本間北曜先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」と指示していたとされ、この計らいで、藩主の謹慎、17万石から12万石に減封、30万両の献金という寛大な処分でした。
 これらに恩義を感じ、明治3年には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島入りし西郷の教えを受けることになります。その後、元庄内藩士らは西南戦争で失脚した西郷の復権運動と「南洲翁遺訓」の編さんに励むことになり、また酒田市には西郷を顕彰する南洲神社を建立したほどであり、更に、鹿児島市と鶴岡市は昭和44(1969)年、友好・姉妹都市として「徳の交わり」が続いているそうです。

庄内藩、戊辰戦争で無敗を誇った最強の軍団
 江戸の治安を守り新徴組を擁し、薩摩藩邸焼き討ちから逆恨みされた。あまりの強さに敵は城下に入れなかったため地元でも知られていない
 
https://youtu.be/cI_gr4ZDh1Y

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年3月16日 (金)

橋本左内の「稚心を去る」

 乏しい書棚に、西郷隆盛「南洲翁遺訓」、朱子学の入門書「近視録」、Sanai_image橋本左内の「啓発録」などが並んでいます。若い頃、幕末の志士らに思いを馳せたことを回顧するも、全てに「少年老いやすく学成り難し」の心境です。特に、橋本左内が16歳でまとめた「啓発録」は、小生の成人に頂いたもので「稚心を去れ」の教えを昨日の如く記憶しています。福井藩藩主松平慶永(よしなが)(春嶽)の側用人・橋本左内は、西郷隆盛が同輩で唯一尊敬した人物とされ、一橋慶喜の将軍擁立の裏工作に協力した事で、安政の大獄で26歳の若さで刑場の露と消えています。幕臣・水野忠徳は「左内を殺した事をもって、徳川を滅ぼすに足る」と語り、西郷も「左内を殺すとは、幕府は血迷っている」と述べています。
 徳川幕府は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約を締結し、横浜や神戸・函館などを開港して交易の約束をしますが、その5日後に、松平春嶽や徳川斉昭らは江戸城に押しかけ登城し、大老井伊直弼らに条約調印と将軍継嗣を糾弾した行動が安政の大獄の始まりでした。これにはペリー来航の序曲があり、当時、徳川将軍の家定(1824~1858)は虚弱体質で、後継将軍に老中・阿部正弘をはじめ、島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭らは一橋慶喜(徳川慶喜)を推挙(一橋派)し、対して、譜代大名や井伊直弼、徳川家定の生母・本寿院らは紀伊藩の徳川家茂(いえもち)を擁立(南紀派)した結果、血が濃い家茂(いえもち)が13歳で1859年14代将軍に就き、1862年皇妹・和宮との婚儀が上げるも1866年に21歳で死亡しています。
 なお「安政の大獄」は、徳川御三家などの親戚筋と一家来にすぎない井伊家との関係悪化とされ、それを制御出来ないほど落ちぶれた幕府の権威の失墜の表れでもありました。この「稚心を去る」は、大人になり切れない政治、憲法、防衛、18歳成人問題など、今の日本人に問いかけているようです。そして3月18日の「西郷どん」第11話は、次期将軍問題や篤姫を家定の御台所にする工作になるはずです。
 国立市で発見された龍馬の手紙: 大日建設の社長日記

| | コメント (1) | トラックバック (0)

«鹿島(水戸)と鹿児島は関係が深い?